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気ままな齧歯類

三鷹での暮らしも、三年目に突入した。

二世帯住宅の一部を間借りさせてもらう形で妹と始めた生活だったが、同居人が変わったり減ったりして、今は一人で住んでいる。上の階には大家さんがいるが、そもそも玄関も居住空間も異なるので、一緒に住んでるとは言わないくらいの距離感だ。月末に家賃を渡すときと、何か家で消費し切れないものが余分にあるときだけ、互いの玄関を行ったり来たりする。

一昨日は髭がついたままのとうもろこしを一本もらった。料理めいた行程を踏むのは面倒くさくて、洗って四つ切りにしたものをそのまま蒸し器に入れる。

そういや料理の絵面を撮って不特定多数が見るようなSNSにあげることがめっきり減ったな、と思いながら、前歯でぷつぷつと黄色い粒をむしる。この食べ方だと歯の間にとうもろこしの皮が挟まらないのだ。昔、食べる様子を目にした家族から「そういう齧歯類いそう」と言われたのを思い出す。

それで、スマホを手にとって齧りかけのとうもろこしを写真に納め、「大家さんにもらった」と一言申し添えて家族のグループLINEに送った。最近連絡が少ないと心配されがちな娘からの、生存報告の一環である。既読がついたが、特に反応を見るでもなくLINEを閉じて、代わりにインスタを見たりする。

インスタにはいろんな人がそれぞれの暮らしを載せていて、見るたびに心の中で「は〜〜〜〜(感嘆)」と呟く。今のわたしには到底、少なくともコンスタントに載せるなんて到底できないことだなと思う。「自分の暮らしを他者に見せる」という気持ちが少しでも作用した時点でそれは自分のためだけのものではなくなってしまう。色々あって、自分の暮らしは自分だけで独占したい気持ちがここまでむくむくに膨れてしまった。

その代わりに、誰かに反応してもらうために暮らしを作ったり魅せ方を考えたりするような気持ちはすっかり鄙びたように思う。たまにTwitterなんかに自分の暮らしの写真を載せるときも「これでわたしの暮らしを見届けたり!なんて思うなよ」と心の中で啖呵を切りながら投稿している。じゃあ載せるなよと突っ込みたくなるかもしれないが、一人暮らしが続くと人間はかくも偏屈になるのだと思って見過ごしてほしい。

振り返れば、台所に立つ場面でこそ、外には見せられないようなことをやってきた人生だった。幼少期、「キッチンのもの、なんでも好きに使っていいから!」と言われた三姉妹でお留守番をすることになったときは、米櫃の中のお米を全て使っておにぎりパーティーを開催した。具材は梅、ごはんですよ、しゃけ、バター、チーズ、おかか、茎わかめ、などなど。お米は多分五合ほどあったが、すべて食べ盛りな娘たちの胃袋のなかに消えた。

一人で餃子を作るときも、普通の肉だねの他に、スライスチーズやチョコレートなどの変化球を生み出して誰もいないキッチンでニヤニヤしているから、きっとおにぎりパーティーも妹たちの有無は関係なく、わたしが好きでやっていたのだろうと思う。

今、家族もパートナーもいない、三鷹のちいさな2Kの家で、好き勝手に家のことをやる日々を思い出し、そして取り戻している。「暮らしは自分のためのもの」という言葉を思い浮かべたとき、もはやそんなこと当たり前すぎてお前馬鹿じゃねえの何言ってんのと思う日も、神妙な顔で聞き入りたくなる日もある。

誰かのために暮らしてきた日々も、それはそれで悪くはないが、今のわたしは、貰ったとうもろこしの存在を身近な人だけに教えて、蒸したものをちょっと癖のある食べ方で口に運ぶ、そんな暮らしがしばらくは変わらずにいてほしいと思っている。


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