「今となっては良い思い出」について

よく、「今となっては良い思い出」という言葉が聞かれます。
しかし、時間が経っただけでどうして「嫌なこと」が「良い思い出」に変わってしまうのでしょうか?
このノートでは、ちょっとした考察のようなものを書いてみます。

まずは自分自身の具体例から。
私は、小学生のころに二回、中学生の時に一回、特定の人間から嫌がらせを受けたことがあります(細かいのは省いてですが)。
イジメと言ってもいいかも知れません(もっと深刻なイジメ≒犯罪に遭った人にとっては大したことないと思われるでしょうが)。

一度目は、小学2年生の頃。
体の大きい同級生(ジャイアン的な)と小さい同級生(スネ夫的な)のタッグに目をつけられました。
最初は、大きいヤツとは結構仲が良かったのですが段々と意地悪されることが増えました。
二人揃って私の名前をもじって馬鹿にすることが多かったですね。
それから、大きいヤツと無謀にもケンカすることもありました。
一番ムカついたのは、組み伏せられた私にスネ夫が蹴りを入れてきたことでした。
その卑怯さにはらわたが煮えくり返りましたね。
結局その後すぐに親が転勤したので、関係は終わりました。

二度目は、小学6年生の頃。
クラスの二人組(私は、「カメ」「白塗り」とあだ名してます)に文房具を盗られたり、ハサミを使って文具を傷つけられたりしました。
このときは、私の友達が味方してくれたことをきっかけにイジメは終わりました。

三度目は、中学生の部活でのこと。
ひとつ上の学年の、ノッポとチビのコンビにやられました。
おそらく運動神経が悪く、下ネタが苦手だったことが面白かったのでしょうね。
このときの悔しさはかなりのものでした。
相当程度まで「コロコロしてやろうか」と思い詰めたものです。
このときは、そいつらが卒業するまで耐え忍びました。

さて、それからしばらく経った今ですが、これらの事を思い出しても特に嫌な気持ちにはなりません。
もちろん、悪い思い出ではありますが、なんだか可笑しみも感じるのです。
例えば、当時の私にとっては大きく見えた連中も、今となってはガキンチョです。
もし今の私がタイムスリップして当時の様子を見たら、「なんでこんな奴らにビビってたんだ?」と思うでしょう。
それから、嫌だったことの中に、実は良いことも隠れていたことに気づきます。
例えば、自分の名前のモジリは言葉遊びの一つとして面白がれますし、卑怯な行為とはどういうものか身をもって理解しました。
二度目のときは、味方になってくれる友人の大切さに気づく体験でした。
三度目では、耐え忍んだ自分という実績を得ました。それに、過去の自分自身に対してツッコミたくなることもあります(「チ○コ」と口にすることすら断固拒否してましたからね(笑))。

さて、こうした経験を踏まえて、本題について考えてみます。

「今となっては良い思い出」になるには必須の条件があります。
それは、「その経験を客観視できるようになること」です。
そのための最も強力で確実な要素が時間の経過なのです。

まず、時間が経てば立つほど忘却が進みます。
完全記憶能力がある人はどうか分かりませんが、一般的にはどんなことも忘れていき、詳細を思い出すことはできません。
それから、思い出そうとしてもその感覚がよみがえることもまずありません(そのとき「どう感じたか思い出す」のではなく、思い出した瞬間に「再び体感する」ことはないという意味です)。
もし、「いや、自分は細かいことまでしっかり覚えている」と思ったとしても、それは中核となる記憶から適当に再構成している可能性が高いです。
(「過誤記憶」や「虚偽記憶」概念を元に書いています)
これにより、当時に感じた苦痛、悲しみ、怒りといった主観的な要素の影響力が薄れることになります。

次に、時間が経つと人間は変化してゆきます。
児童や青年なら、身体的・精神的に成長します。
成人してからは、身体的・精神的に老化してゆきます(精神的には成長し続けると考えることも出来ますが、「老人への定型発達」のような基準はないので老化と表現しました)。
その中で価値観が変化してゆき、同じ記憶に対しても当時の自分とは異なった見方をするようになります。
すなわち多角的な視点を獲得するということです。

最後に、時間が経つと環境が変わります。
学校(クラス、学年、部活動)や会社(部署、役職)、家庭(子供、独立、結婚、親)などは、時間の経過とともに変化するのが普通です。
また、行動習慣の変化や転居により日常を過ごす空間も変化するでしょう。
自分を取り巻く人についても同じです。
ペルシアのクセルクセス大王は、自らの大軍を見て「百年後には、この内のただ一人も生きていない」と思い、涙したといいます。
どんなに嫌な人も(もちろん自分も)、所詮寿命には抗えずこの世から跡形もなく消え去るということはある意味救いです。
自分にとって嫌な場所・立場・人は、時間と共に離れていくのが普通です。
こうして、その渦中から脱出することで、当事者性が薄れます。

まとめると、時間が経つことにより

①主観的な感情の忘却
②多角的な視点の獲得
③継続する悪影響からの脱出

が達成され、思い出は客観化されると考えます。

しかし、「客観化」は必須の条件とはいえ、まだ「良い思い出」の十分な条件とはいえません。
では何が必要なのでしょうか?
それは、思い出を客観視したときに「面白み」を発見することにあると、私は思います。
ここで言う「面白み」とは、interestingではなくfunnyの方です。
「人が面白く感じるものは、期待(常識)から逸脱しているものだ」という理論(ユーモアの不調和理論)があるそうです。
私はこの理論に詳しくないので、上記のまとめ方が適切かは分かりませんが共感できるので、これを採用したいと思います。

すると、思い出を客観視したときに、
「どうして、こんな些細なことで大騒ぎしたのだろう」
「生きるか死ぬかのように深刻な顔をしていたけど、実は大したことない」
「明らかに自分のためになることに、どうしてあんなに反発したのだろう」
といった、「今の自分が持っている価値観からの逸脱」が見えて、可笑しく感じられると考えられます。
そして、可笑しく感じるのは、思い出を想起する自分=最新の自分です。
一方で、嫌な思い出だと感じていたのは、当時の自分=過去の自分です。
さらに、嫌な思い出として想起していた自分もまた、時間経過による風化によって薄れていくのです。
結果、思い出に対し「悪い思い出だ」とする印象は薄れ、「可笑しな思い出だ」とする印象は強化されてゆきます。
こうして、多くの嫌な思い出は「今となっては良い思い出」になってゆくのではないでしょうか。

最後に、私は全ての思い出が「今となっては良い思い出」になるとは考えていません。
また、いたずらに他者を傷つけて「どうせ良い思い出になる」と考える人は最低です。
上記の論理から言えば、どんなに時間が経っても可笑しく思えないことは「良い思い出」にはなりません。
また、記憶が薄れていくまでは確実に苦しみますし、強く印象に残ってしまった思い出は中々客観視できないと思います。
ただ、「思い出の客観化は時間経過によって起こり、その辛さは薄れていく」という点は、普遍的なことだと信じています。

というわけで、今日の嫌なこともそのうち薄れるし、あわよくば「良い思い出」になると(疑りながらも)期待しつつ明日も生きてみようと思います。




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