2019.01.11 day.42

 鍋は便利である。普通では食べられないものを熱湯の力で食べやすくする。そして温かいから食べているうちに体があったかくなる。心があったかくなるかは知らない。食べている時はとにかく胃の中に食べ物を詰め込もうという意識しかない。
 今日の鍋は白菜とニラと水菜、もやしの野菜に鶏肉のつみれと胸肉、冷凍庫にほったらかしになっていたタラバカニを全て鍋に入れて、市販の鍋汁を注いで沸騰させたもの。たれ用のポン酢が無かったので、味が薄くならないかなと思っていたが、鍋汁だけでも十分に美味しい。
 我が家では、鍋と言ったら大抵寄せ鍋かすき焼きになってしまうのだが、他の家庭ではいろいろな鍋を食べているらしい。レシピサイトを覗けば、キムチ鍋やら豆乳鍋やら、果てにはカレーライスとの違いが分からないカレー鍋などというものある。(カレー鍋が好きな人には申し訳ない。しかし、カレー鍋の〆には何を入れるのだろう。うどん? ごはん?)
 鍋を作るのはお手軽だというひともいるが、結局、材料を食べやすい大きさに切り刻む工程は必要なので、面倒な料理には変わりないと思う。というか料理は全て面倒。だからこそ飲食店が無くならないわけで、家でもレンジで温めてすぐに食べられる食べ物が人気になる。私もチャーハンの粉末にはお世話になっている。
 料理は慣れてしまえば簡単なことかもしれないが、物事はすべて慣れて簡略できるもので、要はそこに至るまで作業や情報収取を続けられるかということになります。そこにはやはり個々人の好みが関わってくる。
 作業の報酬として飯が食べられるという本能と結びついた行為だからできてしまえる、と言えるかもしれない。仕事をすればお金がもらえるという事、だからそれが嫌な仕事でもできるようになる。
 考えると今の自分の状態を批判的な目で見てしまう事になるが、誰だって孤独に餓死はしたくないという不安から生活しているのだ。年中、酒に酔いつぶれているように見えるあのテレビ番組の年老いたホームレスも、長い時間と不安から逃げるためには酒で意識を低迷させるしかないのだと思う。
  駄目だ、何故か暗い話になっていく。今の生活から導き出される思考が最悪な状態なのかもしれない。人間の知性は歴史的社会的環境によって自己を確立させるという言葉が図書館で借りてきた本の中に書いてあり、私はそれを身をもって実感しているのだろうか。
 鍋を食べたという話がしたかっただけなのに!

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