2018年12月23日(日曜日) 日記23日目

 目が覚めると昼。また目が覚めると夜。時間の感覚は無くなっているけれど、この日記だけは書かないとという義務感だけが残っている。おそらく普通に生活していれば、日記を書くなんていう時間は仕事にとってかわるのだろうけど、それがないから私は日記を書いている。
 そういえば天皇誕生日だそうですね。数か月前に読んでいた本の中から天皇に関するエッセイがあったので、それを紹介して無料部分は終わりにしましょう。(この日記、有料部分にあと二つ雑記を書いていて、あなたの時間つぶしに最適な文章がいっぱい書いてあります。当社比。)
 窪田空穂という歌人が書いた随筆に「『皇族画報』出版の顚末」というものがあります。詳細に随筆の内容を書くことも、史実と照らし合わせることもしておりませんので、私の主観が多分に含まれますがご了承ください。
 明治40年ごろ、窪田空穂が在籍していた東京社は火の車でした。それというのも東京社は国木田独歩が興した独歩社がつぶれてしまい、その社にいた編集部員が独歩社で発行していた雑誌を引き継ぐために、少ない資産を担保に入れて興した会社だったからです。
 もちろん稼ぎ頭の雑誌が売れなければやっていけるはずもなく、次第に経営が厳しくなっていきます。担保に入れていた資産さえなくなり、どうしようもなくなっていた時に、窪田空穂が考えたのが『皇族の写真集を出そう』という起死回生の一手でした。
 写真集と言っても、こちらから撮影をお願いしにいくわけではなく、皇族それぞれに保存されている御写真を借りてきて一冊作ってしまうという、今考えても「それはちょっと無理でしょう」と思えるようなものでした。
 しかしその無謀な目論見にもいくばくかの勝算があるもので、もともと東京社で出版していた『婦人画報』の認知度を盾に、皇族写真集もまた国民教育上として良いものであると皇族の人々に説いて回った結果、その趣旨に賛同されて御写真を借り受けることができたわけです。
 我々には写真を借りる程度以上の事は想像はできないことではありますが、御写真を借りに来た社の者たちが帰社する際、その御門から人力車に乗るまで、宮家の役人が社の者たちにではなく、風呂敷に包んだ御写真に対して最敬礼をし続けて送っていったというエピソードもあるように、やはりその行為というのは畏れ多いものだったと思われます。
 その後、貸出期日を過ぎた御写真を取りに役人が押しかけたら東京社が思いのほかみすぼらしい建物だったのでさらに怒られてしまったとか、同様の写真集を出版しているため版権侵害として訴えられそうになったりしますが、なんとか出版に漕ぎつけることが出来ました。
 窪田空穂の目論見通り『皇族画報』は東京社を持ち直すほどの売れ行きを見せ、かつ新しい御写真を収録した版を出せるほどの定番誌となっていったわけです。
 ちなみに『婦人画報』『皇族画報』を出版した東京社は昭和6年に経営破綻、その後、昭和23年に『婦人画報社』として再建、海外資本傘下に入るなどして現在まで続く雑誌社となっていくわけですが、それはまた別の話になりますね。
 ちょっとした雑学めいたことで文章を埋めてしまいました。祝日はみなさんいかが過ごしましたか? 私は寝てばっかりでした。

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