野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 特選 3首
投稿歌人 八号坂唯一です。野性歌壇の4月号が届いて一週間経っています。3月号の短歌鑑賞も未だというのに、どういう事なんでしょうか。今年に入ってから、ずっと文章を書いているような気がしますが、現実は一日に3時間も文章を書いていないという能率の低さを突きつけられています。もう少し書くスピードを上げたいですね。
こうして他人の短歌を読みながら考えているのは、他の人の考えていることは結局分からないという事かもしれません。人の口から出る言葉は確かに他の人も読めますが、その言葉に込められた感情なり思いはどうしても違っている。自分の言葉にしてみて、ようやく違っていることに気づかされる。もしかしたら、自分の言葉を出すことで、誰かの言葉を聞きたいのかもしれません。
これが一体誰に届くのか、今は分かりませんが、私は言葉を出し続けます。
「小説野性時代2020年2月号」の392ページを開いてください。今日は特選の3首について考えてみたいと思います。
テーマ詠「日付」
2020年2月号 加藤千恵 選 特選 1首
神奈川県 小鷹佳照
テーマ詠のモチーフ『月曜』
成田国際空港(なりたこくさいくうこう、英: Narita International Airport)は、千葉県成田市南東部から芝山町北部にかけて建設された日本最大の国際拠点空港である[1]。首都圏東部(東京の東60km)に位置している。空港コードはNRT。
(中略)
国際線旅客数・発着便数・就航都市数、総就航都市数、乗り入れ航空会社数、拠点空港としている航空会社数、貿易額において国内最大である。セキュリティは国際空港評価でBest Airport賞を受賞している[9]。(以下略)
成田国際空港-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手の乗っている飛行機は成田空港に着陸しようとしている。飛行機の中でひと眠りして、窓の外を見ると見慣れた風景が見える。スマホで現在の時間を調べると、だいぶ長い時間空の上にいたらしい。一日前までは遥か彼方の国に居たはずなのに、ひと眠りしたらまるで昔のことのように感じられる。
そういえば出発時には日付変更線を跨ぐから、一日時間を進めないといけなかった。その日付を日本の日付に元に戻さなければならない。出発は過去へのタイムスリップだったのに、今は浦島太郎のような気分だ。日付をずらすともう火曜なのか。月曜は一体どこに消えてしまったのだろう。ぼんやりと考えている詠み手へ着陸の機内アナウンスが流れていく。
成田国際空港は国際線発着の飛行機が多く飛んでいる。この短歌では成田空港としか書かれていないけれど、半分を海に落としてという上の句と組み合わせて考えると、やはり詠み手は国際線を使って海を渡る旅行に行ったのだろうと考える。
そして月曜は見つからぬままという言葉についてだけれど、初めて見た時は私はこれが何について比喩しているのか分からなかった。おそらく地理に疎い読者にとっては、なぜ月曜が見つからないのかと思ったはずである。
初めは海上を飛ぶ長時間の飛行機に乗っているから、それだけの時間を海に落としてしまったのだろう。それが月曜という一日、ここでは朝から昼までの日中が無くなり、詠み手は夜に成田空港に到着するのだと考えていた。
しかし、世界地図をご覧になった人には分かるように、経度180度の海上には国際日付変更線があり、その跨ぎ方によって一日分日付が前後してしまうのである。そう考えると、この短歌は単に海外旅行について書いているものではないと分かる。
そのように考えると、旅行先はおそらく北米か南米であると推察される。日本出発の時は一日日付が戻り、日本到着の時は一日日付が進むので、旅行先から成田空港に到着するときには月曜ではなく火曜に進み、月曜が消えてしまったと詠み手は思ったのだろう。
半分とは、一日の半分という理解で構わないだろう。成田空港のサイトで時刻表を調べてみれば、北米や南米への飛行機は半日以上の飛行時間があった。それを詠み手は、海に落として、という表現にしたのだろう。ここには詠み手が自発的に飛行機に乗っているために、あえてそれを受け入れる言葉遣いにしている。
この短歌の要素になっているのは、この月曜は見つからぬままという言葉である。ここには先の言葉である、落とした時間、という詠み手の自発的な行動によるものではなく、不意に失われてしまった時間、という偶発的な感覚がある。乗り物の移動時間だけではない、別の時間の仕組みに詠み手は翻弄されている。
どこに行ったのか、どのような旅行だったのかは書かれていない。詠み手はその部分は個人的な事であり、読者に伝わらないと考えたのだろう。旅行で経験した時間とは違う、地球が巨大な球形であることに由来する時間の仕組みについて短歌にしている。
それはどの読者にとっても不思議な地球の仕組みであり、それを太平洋上の広大な自然と、成田空港という巨大な人工物の組み合わせによるシンプルな風景のみによって読者に想像させているのである。
2020年2月号 山田航 選 特選 2首
長野県 浅井文人
テーマ詠のモチーフ『墓石の日付』
墓石(ぼせき、はかいし)とは、墓のしるしに建てる石材製品。墓碑(ぼひ)ともいう。墓石を指して墓ということもある。日本においては五輪塔、宝篋印塔、宝塔、多宝塔、層塔、板碑も含まれる。
(中略)
正面には宗派の梵字や名号、「倶会一処」(浄土真宗)などが刻まれる。側面や裏面には建之日・建之者、側面に故人の命日・俗名などを刻む。文字の所に墨を入れる場合もある。家紋は水鉢や花立に刻む。彫刻した部分に入れる墨色は、石の色や地域により黒、白、金、銀などがある。 (以下略)
墓石-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は里帰りで実家に戻り、両親と一緒に祖母の墓参りに来ている。墓を洗うための手桶と線香、祖母の名の花を携えて墓の前に立つ。詠み手は今でも祖母の皺だらけの顔や手を思い出す。生前の祖母は確実に老いてはいたけれど、こんなに早くに会えなくなるとは思っていなかった。詠み手は手を合わせ、墓石に付いた汚れを洗い始める。
祖母が先ごろ亡くなった、と親から聞かされたのは、詠み手の里帰り前だった。祖母の葬式に行くこともできなかった。墓石にはご先祖様と共に祖母の名前と命日が刻まれていた。その文字は彫られたばかりであるのを示すように、どのご先祖様の名前よりも白かった。洗い終わり綺麗になった墓石に花を手向ける。祖母の最期の顔が見られなかったのを、詠み手は気にしている。
いつ祖母の墓に訪れたのか、短歌でははっきりしてないが、私は葬式にも行けずさらに月日が過ぎた頃であると想像した。合わずじまいの日付、という下の句が祖母の最期を看取れなかっただけではなく、葬式にも行けず祖母の顔を見られなかったという部分まで及んでいると考える。
この短歌には祖母の名の花と、ご先祖様が眠る墓石、そしてそこに刻まれた祖母の命日がある。どれも祖母を思い出させるものばかりだが、そこに祖母本人はいない。詠み手が思い出すのは最後に会った時の普段の顔ばかりであるが、今となっては祖母の最期の顔さえ見ることができなくなってしまった。
墓石に白く刻まれた命日が、おそらく詠み手にとっての直近の祖母なのだろう。その真新しき白さに、詠み手は祖母を意識させられてしまう。そして祖母の最期の顔を見られなかったという、後ろめたい感情を引き出されてしまう。
詠み手が祖母に頻繁に会っていれば良かったのか、と考えてしまいがちだが、それでも詠み手の感情は変わらないであろう。人の死はいつだって突然に降りかかり、もうその人の過去しか見られないからである。その過去には些細な瑕疵が必ずある。それが後悔を生む。詠み手にとっては祖母の命日に立ち会えなかったことなのである。
この詠み手の描写は努めて客観的なものであるけれど、感情としては墓石に刻まれたばかりの文字のようにとても新鮮なものだろう。実際に書かれてはいないので、本当はどのような感情が詠み手の中に渦巻いているのかは分からない。会わずじまい、という言葉だけがその感情を仄かに漂わせている。
祖母との過去だけになった、ということは、これからは他の人たちとの過去と同様になってしまうということでもある。過去に埋もれていく、といういい方は冷たいかもしれないが、古い記憶というものは思い出そうとしてもすぐには出てこなくなってしまう。
おそらくはこの後悔も詠み手の日常に馴染んでしまうだろう。墓石の白い命日が、いつしか他のご先祖様の命日のように墓石の色に馴染んでしまうのと同様に、時間が解決するものなのかもしれない。白さに注目しているのは、時間がまだそこまで経っていないからでもある。
けれど、祖母の記憶や情景は詠み手には残り続けている。それを短歌という形でも残しているのである。墓参りという個人的な短歌ではあるが、その瞬間の感情と、風化していく記憶のそれぞれの味わいを読める短歌になっている。
神奈川県 久藤さえ
テーマ詠のモチーフ『西暦』
西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である[1]。
(中略)
西暦年自体を公的に定義している例として、情報における日時データ形式を規定する日本産業規格 JIS X 0301 においては国際規格 ISO 8601 に準じて、西暦年をメートル条約の調印年を「1875年」としてこの起点から年の値を増減両方向に定義する紀年法として定めている。 (以下略)
西暦-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今は西暦2020年3月XX日である。明日になれば一日数字が加算され、ひと月経てば西暦2020年4月になる。一年経てば西暦2021年になるのは今まで通りの時間の流れであり、読者の誰もが認めるところであろう。例えば、パソコンのカレンダーや予定表は、月単位や年単位で一つずつ進められる。この短歌ではこの仕組みを利用した思考実験をしている。
カレンダーをひと月ずつ先に進めていくと、すぐに西暦2021年を迎える。さらに先に進めていくとそのうちに西暦2120年になり、さらに先へ進めると西暦3020年になる。では西暦9999年12月31日になってからさら一日先に進めると、カレンダーはどのような挙動になるか。この短歌のカレンダーでは西暦は四桁しか表示できず、その余剰分は、月、そして日と加算されていく。
そのままその先の限界の西暦表示を書いてしまうと、作者の短歌そのものになってしまう。しかし、西暦XXXX年XX月XX日の桁全てに最大の数並んでいると想像していただければ、ほぼこの短歌をそのまま表していると言っていい。手元に当該の小説野性時代が無い読者は、バックナンバーを取り寄せてご覧いただきたい。
西暦の限界はどこにあるのか考えた人は少ないだろう。大抵は永遠あるいは、何かしらの変革まで続くだろうと思っているのかもしれないが、具体的な数字で表した人は少ないのではないか。西暦10000000年と表記はできるが、おそらく想像として未来を実感できるものではない。ここまでの桁になると身近なものではなくなってしまう。
想像できるような身近な未来はおそらく西暦2020年という、この四桁までが限界なのではないかと思う。それは、日常で見慣れている桁数だからである。日常で見慣れている桁だからこそ、その桁の範囲であれば数字が変化しても許容できるのである。
よってこの西暦9999年という言葉が目の前に出ても読者は一応は理解できる。しかし、問題は次の月日である。この月日は、暦上ではありえない数になっている。おそらくここでこの短歌を想像が出来なくなった読者もいるだろう。
現在は一年は十二の月しかなく、その月ごとで世界の様相は一巡してしまう。日本の四季に慣れ親しんでいる読者には、13月以上の世界の在り方は想像できない。これは読者が現実を基にして想像しているからであり、四季という現実の循環の外にあるものは、想像するための手掛かりも無くなってしまうのである。
この短歌は現実の世界を基にしているものではない。あくまでも西暦という数字の表記の限界を考えたものなのである。そこには、四季も未来の世界も考慮されていない、よって私たち読者もその世界を想像することを迫られてはいない。
作者は最大数の並びによる西暦を見せることで、数字の表記から新しい見方を提示しているのである。ここには限界まで迫っている西暦の表記の緊迫感があり、私たちの常識や創造を超えた未知の領域があるという認識を生み出しているのである。
では、この限界まで迫ってしまった西暦9999年に一日足したとしたら、一体どういう表記になるのだろうか。いろいろな表記の想像ができそうではあるが、どれも日常から慣れ親しんだ桁の並びからは外れてしまうだろう。この短歌はその日常の中にある非日常を見る一つの手法として作られている。
ちなみに過去であれば、それが数十億年前と表記されていても不思議と受け入れられるだろう。実際は過去を遡ると、そのうちに時間が無くなってしまうのだが、この膨大な過去については自由な想像を巡らせることができるのはいったいどうしてなのだろうか。未来の想像と過去の想像の違いとは一体何であろうか。
次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 3月号 山田航 選 佳作 10首』に続きます。
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