言葉を追いかけているうちはウェルビーイングなんざ不可能だね。

ウェルビーイングという言葉を調べると、「よい状態」だとか「心身ともに健康な状態」だとか「幸せで満たされた状態」などという美辞麗句が並ぶ。

言葉自体はいいと思う。だが、その言葉を追っかけているうちはウェルビーイングを体現することは不可能だろうと思う。特に個人で言っちゃってるヤツな。そこのお前だよ。

そもそもじゃあ満たされている状態ってどういう状態だろうか?
それはつまり日常のことだと俺なんかは思うのだ。
隣の芝生や、絵に描いた餅、水面に映る月のようなものを追いかけず、足るを知る状態、心が惑わされない状態こそが満たされているというものだろう。

たいてい、こういう言葉を使いたがるヤツっていうのは足るを知らない印象が強い。だから一時満たされたとしても、次は必ずもっと大きい器を持ってきやがる。そのくせ、なんとしてでも手に入れようという気概はなく、与えられないことへの不平不満を叫んでいるようなイメージがすごく強い(偏見)。

いつぞや自己肯定感のときにも書いたのだが、幸せとか満ち足りた状態っていうのはけしてキラキラと輝くものなんかじゃなく、凪いだ水面のように静謐で変化がないものなんだと思っている。

だから、ウェルビーイングでありたいと、足りない足りない言っているうちはウェルビーイングなんて無理。むしろ対極にあると言えるだろう。

向上心を無くせと言っているわけではない。ただ、今あるものをないがしろにするなと言いたい。今ある幸せを見ずに「満たされたい満たされたい」と言っているのは穴の空いたグラスで水を汲んでいるかのような滑稽さを感じてしまう。

社会や企業がウェルビーイングを語るのは正しい。
社会や企業はシステムだからね。
健康で文化的な生活を提供するために、時代に合わせて考え方を変え、行動に紐づけていくことは大切だ。
ただ、システムはあくまでサポートで最低ラインの保障をするものでしかない。いわばキャッチャー・イン・ザ・ライだ。落ちたときにすくい上げるものでしかないんだと思う。
すべてを与えてもらえると思ってはいけない。逆にすべてを与えられている状態というのは、ウェルビーイングではなくただの飼い殺しだ。

メディアもウェルビーイングをことさらにキラキラしたものだと思わせるような伝え方は避けなければならない。
人は愚かで、わかりやすくキラキラしたものが好きだからね。
キラキラした飴の中に、小さな毒を潜ませるなんてのはプロパガンダの常套手段。何度人類はそれに騙されてきたことか。

ウェルビーイングのために、というのであれば、まずは自分の足元をしっかりと見返すことがなによりも肝要だろう。
追いかけているものがある状態にすら幸せを感じられているのであれば、たとえなにかが欠けていたとしても、それはウェルビーイングと言えるのではないだろうか。

ただし、本気で成し遂げたいものや叶えたいもの、掴みたいものがあるという人はウェルビーイングになってはいけないとも思う。
満たされた状態と向上心は相反しないとは思うが、成長への貪欲さという点では比べるべくもない。
本当に欲しいものは与えられるのを待つのではなく、順番待ちをするのでもなく奪い取るものだと思うから。

つまり、若い世代はウェルビーイングなんて言ってちゃダメよ。

#ウェルビーイングのために

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