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“答え”なんてないという真理

みんな答えが欲しいんだよね、多分。

ビジネス書を100冊読んだ!みんなも読んで!と呟いた人がTwitterでフルボッコにされていた。少なくとも私がフォローしている人たちは「いやいやいやwww」という感じだった。かくいう私もそうだ。これが『新潮文庫の100冊』だったらこんな扱いを受けることはなかっただろうにと思う。

先日飲食店で隣になった人が、伝え方は難しいが「上地雄輔が上地雄輔のイメージを演じてる」みたいな人だった。名言格言のオンパレードなのである。

「俺すごいことにこの間気付いて」
「俺、最近美味しいもの食べてるときは『あぁ俺いま美味しいもの食ってんな〜』って思うようにしてんの。それってすごい幸せなことじゃん?」
「俺ね、それについても答えが見つかって」

…覚えているだけでもこんな感じで、ずっと喋っていた。幸せそうな人である。女でも口説いてんのかなと思ったら、連れの女性はその人の姉だった。

人は不安なとき、ズバッと言われると弱い(ズバッ)。だからいつまでも占いは儲かる。占いが雰囲気を大事にするのはそのせいである。病院と一緒で、何か解決したい心配や問題がある人が扉を叩くので(しかも大体問題ごとは自己申告してもらえる)、あれほどニーズを満たすお仕事はないと思う(※私は占い好きです、念のため)。みんな答えを知りたいし、早く不安から解き放たれたいのである。

ビジネス新書・ライフハックも同じで、とりあえず目の前の解決したいことに対してインスタントにそれっぽいアンサーを提示してくれる。しかし多くの場合「それができりゃ苦労しないよ」となるし、書いてある通りに実行してみてもとりあえず精神安定剤を飲んでいるのに近く、真の解決には至らない。そして怖いことに、間違った処方を選んでしまうと余計にこじれる。

なぜか?それは自分に向き合っていないから。少なくとも出たばっかりのビジネス新書は「期間限定お菓子」みたいなもので、スタンダードで普遍的な答えは提供してくれない。もしそれっぽく見えたら、古典のまとめか焼き直しだと思っていい。

別にインスタントな精神安定剤がいけないと言っているわけではない。しかしそれをたっくさん読むことにどれだけの意味があるのか?ゲームの攻略本をたくさん読んだ先にあるのは、世の中をゲーム的に捉える視点である。つまり、プログラム外の事象に対応できないという脆弱さだ。プログラムに呼応しない対象や事象を避け、そしてそれに気づかないか認めないという事態を引き起こしはしないか。

必要なのはハウツー本ではなく、人間の営みを見つめる古典である。あるいは、古典を通じて自分に問いかける作業ではないだろうか。自分が何を求めているかわからなければ、永遠にハウツー本でお茶を濁し平面移動するだけだ。登りたければまず潜ろう。その先に自分だけの答えがあり、その作業を経験し続ける人だけが人間的深みを獲得できるのだから。

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