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喉越し文学

私は文章が好きですが、それは本が好きということと同義ではありません。

小学生の頃に一番好きだった読み物は子供服の通販雑誌でした。
「ふわっふわっ、ほんのり甘いニットでワントーンコーデを楽しんで」
広告する言葉はテンポが小気味よいのです。かわいい洋服も眺められるしまるで絵本みたい。

新聞を読むのが日課なのですが、折り込み広告にも目を通します。地域の求人ジャーナルにとてもわくわくします。
「アルバイト、パート。工場勤務、時給1000円、週3日から。アットホームな職場です!」
下手な小説を読むよりリアルに想像力を刺激してくれます。

ネットの広告や、ポストに入っているクーポンも好きです。特にピザ屋なんか最高です。
「デラックス・ピザ(トマトソース、オニオン、ペパロニ、イタリアンソーセージ、マッシュルーム、チーズ)」
今の気分に合わせてコスパや栄養価も鑑みつつ、ベスト・ピザを決定します。雑誌を眺める時と同様、実際に買うわけではありません。

一番好きなSNSはTwitterです。身近な人の私小説を読める機会などTwitter以外にないので大変楽しんでいます。
「明日返そうと思っていた本の返却期限が昨日だった」
短歌です。自分と無関係なつぶやきが、たまらなく刺さったりもします。

「本」という形に収まらず流れてゆく言葉は、無価値だと掃き捨てられがちです。

図書館に鎮座する夏目漱石やレヴィ=ストロースやアンリ=ベルクソンの言葉はたしかに重い。一言ひとことに歴史と中身があって、そこに在り続ける確かさを持つ。
だから、流れ去らずにキチンと本棚に収まる言葉だけが、身体に蓄積される気がしていました。

でもきっと、消費されてゆく無数の言葉たちも、感覚としては溜まっていくんじゃないでしょうか。


それを私は「喉越し文学」とでも呼びましょう。
栄養を摂取するためではなくて、香りや味や喉越しで楽しむための文章。
よく冷えたジョッキでビールをがぶがぶと飲むように文章を読むこと。
「喉越し文学」によって、私の文章に対する味覚のようなものは確実に養われたと思うのです。

私は良い文章が好きです。それは、内容の良し悪しではなく、文章の喉越しの良し悪しです。どんなに荒唐無稽でジャンクな内容も、美味しければ好きになってしまいます。

そして今日も口に合わない文章をつぶやく知り合いをバサバサとミュートしています。決して内容が嫌いなわけではないのです。味覚の問題なのです。好き嫌いしてごめんなさい。

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