お初投稿です

初めまして。
読んでくれてありがとうございます。
いや、本当にこんな徒然を読む人はいるのだろうか?と思いつつ書いてみてる。
めんだこって、深海でしか生きられない?とかって。
なんか似てるな、とか単にフォルムが可愛いので好きです。

私は中国地方の海が近い田舎に生まれました。
母は看護師、父は看護助手。
働きマンな親たちは子育てよりも仕事。
私は毎週末、父方の祖父母宅へ預けられのびのび育てられ、幼少期は祖父母の記憶でいっぱい。
祖父は漁師で元調理師。
毎日海へ出て行き、新鮮な魚やイカなんかを目一杯食べさせてくれた。
赤メバルの煮付けや、ナマコ酢。イカをササっと捌き刺身に。今じゃ珍しく茹でたシャコがおやつだったり。
うちの窓から海を見下ろす形なのだが、そこの湾どを祖父が船で行き帰りするのを見送りするのが心地よかったな。
祖母も優しく穏やかで、私には親以上に祖父母と過ごす時間が長かった。

母は三交代で看護師をしていたので、常時寝不足にイライラモード。
家の中では忍び足で歩き、子供の頃から音を立てないよう静かな環境で過ごすのに神経をすり減らしていた。
父は宿直(泊まり)こそあったが、それ以外は朝出て晩帰宅、というスタイル。
カカァ殿下なので母が大黒柱な我が家。
弟たちが2人いてそれなりに賑やかだったけど、そんなに仲良しではなかったし
私は多分ADHD気質な子供だった。
親は手を妬いたろう、子供時代は小さくではあるが面倒な伝説を残してきた記憶がある。
たとえば
友人の私物を窃盗(バレる→問題)、友人宅への住居進入、公園や神社で野糞(バレる→浮く)、あとはスーパーで万引きして警察に捕まったりもした。
自由な子、何も善悪知識が備わってない子、親は育てにくかっただろうな。だってお小遣いくれないんだもの…。
というように、幼少時から根腐れていた人間だったわけです。
そんな私ものらりくらりと成長し、親に言われるがまま看護学校へ行き、死に物狂いで看護師資格を取得。
社会人デビューと同時に自宅から出て一人暮らしを開始。

初めて入職したのは、その地域でそこそこ有名な循環器専門の病院。配属は外科病棟でした。
急性期病院で入ってくる患者さんはほとんどがオペ目的。
私がなぜ循環器を選んだかというと、学生時代に実習で心臓カテーテル検査をみて、感動して興味を持ったから。
心臓を支えるように張り巡らされ、造影で映し出された冠動脈。当時は感嘆した記憶が強く残っている。そのためである。

〜入職一年目〜
名のある病院でもあってか非常に指導は厳しかった。先輩ナースが怖い。泣かない日はなかった。
時間が1秒1秒無駄にできないぐらい忙しい。考えながら体動かしてないと業務が回らない。だから今でも物事には効率の良さを求めてしまう。
バタバタな中での新人指導、なにがなんやらサッパリ…とりあえずメモに殴り書いて、勤務終了後に読み直す。
毎日のサービス残業は当たり前、朝は暗いうちに出勤し、カルテから情報収集、昼休憩なんてご飯かき込むだけ、あれよあれよで日勤を終え、夜勤さんに現場をバトンタッチしてからやっと椅子に座れる。トイレで一息つく暇もない。
それに当時は紙カルテが普通だったので、そこから記録の山!なのだが…
カルテをドクターがまたどこかに持っていきやがる!殴
どうやら医局でカンファレンスだ。カルテが手元にお帰りになるまで、私たちも帰れないのです…
そんな毎日を過ごしつつ、成長し、夜勤デビューも果たし、楽しいと思えた人生初の仕事場。
色んな患者さんに出会った。
周手術期なので、入院してオペまでに必要なものを準備しなきゃなんだけど、1人で身寄りなく入ってきた患者さんなんかは一緒に売店へ買い物に行ったり(時間外です)
当時の私には正義感、とにかく仕事、患者さんファーストだったから
無給残業なんて考えてる暇もなく、がむしゃらに走っていた。
中でもよく覚えている患者さんは、コッソリお金を渡してくる患者さん。これには困った…
「感謝しきれないぐらいあんたには感謝しているから」と。多分お金持ち?な患者さん。
いやぁ嬉しいんだけどぉ…
頂けないんだと断ると泣いて怒るものだから、時にはルール違反をおかしたこともあった。内緒🤫
あとは、手術を終えて人格が180度変わった患者さんや、ほとんどの方が手術は成功しリハビリを終えて退院していく中で珍しく手術中の合併症で寝たきりになって帰棟になる方、手術室で身体を開けたが手の施しようがなくて
そのまま閉めて帰ってこられる方(受け持ちだったので辛かった)など
人間、それぞれわからないものだなぁ。

文章下手でごめんなさい。
で結局なんなの?ってなりますよね。
結局、大変だったけど楽しかったしまだこの辺では病んでないよ〜というお話でした。

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