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僕たちはコントロールできる範囲を拡大解釈してるかもしれない。

自分が印象に残った言葉や文章を紹介する@aratakaryの付箋chを続けて44日経って、なぜそんなことをしたかったのかが、少しずつわかり始めてきた。

少し補助線を引くと、人には馬(無意識、身体)とジョッキー(意識、脳)があり、付箋chをし始めたのは馬側で、はじめジョッキーはなぜ付箋を貼り始めたか理解できなかった。44日間、ジョッキーが馬を観察した結果、馬が何を伝えたいのかがうっすらとわかってきた。

それがタイトルにもある「僕たちはコントロールできる範囲を拡大解釈してるかもしれない。」ってことだ。

ここでいう僕たちとは、ジョッキーのことだ。人間はジョッキー側の意思によって、身体を動かして、他人を動かし、社会が動いていると思っている節がある。未来も予測可能で、計画を立てて投資を受けて実現し、それで社会が成り立っている(ように見える)

でも実際はどうだろう。ベンチャー投資のほとんどは予測通りにいかない。経営計画も計画通り行かないことが多い。他人に勝手に期待して幻滅し、批判する人たちもいる。他人の価値観の違いで延々に分かり合えない会話を繰り返す。風邪を引くと、頭なんて働かない。アルコール依存症になって、自分の意思で酒を辞められない人もいる。日本人に生まれて、知り合った仲間と付き合い、別れを繰り返している。これらは全て偶然である。自分の生きる意味みたいなものを考えはじめると、迷宮入りする。

つまりほとんどのことが偶然の積み重ねでできており、未来のことも、他人のことも、自分のことすらわからなくて、コントロールできない。それにもかかわらずコントロールできる前提で動いてしまうから歪みが生まれるのではないだろうか。

人間はわからない状態がモヤモヤして気持ち悪い。だからすぐに世の中の正解っぽいものに飛びついて安心したくなる。社長が決めてくださいよと、社長に正解を求めたくなる。でもそのスタンスが後々より人間関係のモヤモヤを生んでしまっているのではないだろうか。

だからといって、私たちは何もコントロールできないんだ、本能のまま自由に生きればいいんだ!とも僕は考えていない。國分功一郎さんが中動態の世界という本の中でこのように言っている。

自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかで、われわれは何度も、自由意志あるいは意思の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に「自由」に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。

だか自由意志や意志を否定することは、自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらせれるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わなければならない。

その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、我々が物事をありのままに認識することを妨げるからである。

その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道である。中動態の哲学は自由を志向するのだ。

國分功一郎/中動態の世界 意志と責任の考古学

何でもコントロールできるという信仰はありのままに認識することを妨げる。自分のことはわからないし、自分でコントロールできる範囲が極めて限られていることを前提に考え続けていくことが、自由になっていくのではないだろうか。

自分のことなんてわからない。だからこそ、創作を通じて馬を観察し続けていくと、点と点が線に繋がっていく。偶然起きる出来事も、取捨選択していくことで、偶然が必然になり、物語化していくことによって運命になっていく。それは世間の序列とは関係のない、あなただけの物語である。

基本的には他人と他人とは分かり合えない。でも分かり合えない中で、恥をかいてでも創作し、リスクをとってでも本音で対話することで、他人同士が分かり合えた瞬間は、とても嬉しい。それは馬の本能的なものに刻まれていると思う。

未来のこともわからない。当然、できるかぎりの予測はするけども、予測どおりに辻褄を合わせることはちょっと違う。それは予定不調和の未来の可能性を毀損してしまう可能性もある。今の行動していることが何かわからなくても、後で何かの結果としてわかってくる。未来の結果の原因を今作ってるのであれば、今に集中した方がいい。

「わからないこと」を曝け出せて、「わからないまま」でいながら、共に探索しつづける姿勢。そして感じて、考え、行動しながら、「わかってくる喜び」「わかりあえる喜び」を感じる。それが人間の幸せではないだろうか。

そのためには自ら「わからない」、無意味で無目的な世界にダイブしていく。わからないまま、行動していくことを受け入れる。

創作は、感じて考えて、「わかってくる喜び」「わかりあえる喜び」を感じる手段である。そして言葉は分かりやすく伝えるものではなく、感じて、考えるためにある。

こんなことを言うと、世俗の人じゃない扱いされるかもしれないけど、僕自身は市場経済上でもそのスタンスでやっていける自信がある。わかってないのに、わかってる風にやって歪んでる方がちょっと狂ってる気がする。わからないから、一緒にやってみませんか?というコミュニティがしたい。

最後に44日目に投稿したのは、「わからないですね」ってしっかり言える人って、カッコいいし、ラクにするよねって話。感じて、考えて、その上で「わからない」と言いながら、行動していきたい。