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家族って一体どういう存在なんだろう。

家族って一体どういう存在なのだろう。世の中的にはいわゆる血縁関係のことを「家族」というけれど、なんかしっくりこなかったりもする。中小企業は家族的だというし、ヤクザはファミリーという。いまいちど考えてみたくなった。

家族がわからないから、補助線を引いて考えてみたい。

「ある」「いる」「する」に分ける

今回の補助線は、「ある」「いる」「する」だ。「ある」とは、在る、存在するという意味で、あるがままでいることと定義する。「いる」というのは居る、居場所があるという意味で、雨風が凌げだり、他者に受け止めてもらえることと定義する。「する」とは、為る、行為という意味で、働きかけることと定義する。

ここでいう「家族」とは、「いる」が近いように思うが、血縁がある「家族」と一緒にいてもさみしさを感じてしまうことがあるだろう。哲学者の谷川さんは<寂しさ>についてこのように定義する。

<寂しさ>は、いろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じていて、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態です。どうにも不安で、仕事が虚しくて、友人や家族とうまくいかないのが苦しくて、誰にも理解されない感覚があって、退屈を抱えきれなくて他者や刺激を求めてしまう。これに心当たりがない人は恐らくいませんよね。

谷川嘉浩「スマホ時代の哲学」

いろんな人に囲まれているのに、さみしくなるときがあるのわかる。その状態について古賀さんは『自分』がいないからだと指摘している。

おとなになるとまた別のさみしさをおぼえるようになる。ひとりきりというわけじゃないのに、さみしいんだ。
家族や友達と一緒にいるのに、さみしい。誰かとおしゃべりしながらも、さみしい。友だちもいて、家族もいる。笑顔もあるし、たのしい時間もある。それでもやっぱりさみしいんだよ。
友達がいるのにどうして?
そこに『自分』がいないからさ

『さみしい夜にはペンを持て』古賀史健

つまり、人はさみしさを感じているときは、『あるがまま』でいれない、「ある」がない状態なのだろう。

「ある」がない状態で、他人に合わせて生きても寂しさは変わらないし、SNSやYouTubeなどコンテンツで時間を潰しても寂しい。ましてや他者を依存的に求めてしまうと、共依存になってしまう可能性がある。

谷川さんも、古賀さんも、「書く」ことによる自己との対話を推奨している。私は孤独に自己との対話をする行為をまとめて「創作」と定義している。「創作」とは、外界にあるものに対して、何かを感じて考えたものを、行為を加えることだと定義している。それはいい感じの石ころを拾うことも、味噌汁を作ることも、創作になりうる。ただし、何も感じず考えずに、やらざるを得ないからしている行為は創作とは言えない。私は「ある」ためには、創作「する」という行為が大事だと考えている。

「ある」があって「いる」が立ち現れる

「いる」は、「ある」があって初めて立ち現れる。いくら一緒にいても、「ある」がなければ「いる」ことはできない。以前、私は創作より大切なものはないと言い切ったが、「ある」ができてないのに、「家族」は築けないからだ。「家族」を築きたければ、急がば回れではないが、「創作」するしかないと思っている。

「ある」が大前提で、次のステップで「いる」である。そう思うと、創作する人を応援するHumanHorseClubは、「いる」的であり、血縁は繋がっていないが「家族」っぽさがある。「創作」は別に誰かに認められるためにやってない。誰かから評価や承認をするとかではなく、ただ「ある」状態を受け止めてもらえる場所があるだけで、不安定で弱い「ある」状態を維持し続けられる。

あたりまえの感情を、あたりまえに表現できる。受け止めてくれる誰かがいる。それこそが、更生の第一歩です。

『空が青いから白をえらんだのです。』奈良少年刑務所詩集 寮美千子編

例えば「創作」行為を、誰も見ない日記帳に書いて、心の押入れに密かにしまっておくこともできる。少なくとも自分を自分で受け止めることで喜びはある。ただその自分を全く誰一人として受け止めてもらわずに、日常生活を送っていたら、それはさみしさが出てくるのではないだろうか。

わざわざ心の押入れにあるものを見せなきゃいけないこともないし、他者も無理に開いてしまうのはよくない。ただ心の押入れにしまってニヤニヤしている様子を、そっとコップでも洗いながら、遠目でみていくるくらいがちょうどいいのではないだろうか。それは家族的だなと思う。

「いる」と「する」は混ぜるな危険

「ある」から「いる」が立ち現れる。自分の存在、家族を維持するために、「する」がある。「する」の主な活動は、仕事をしてお金を稼ぐことだ。「する」があるから「いる」が維持できるし、「いる」があるから「する」に集中することができる。

でもよく起きるのは、仕事の中に自己実現やアイデンティティを求めてしまうことだ。上司からも求められることが多いのではないだろうか。

彼女は多くの人に愛されていました。そのことは彼女にもわかってました。だけど、それらの人々は彼女に「いる」をもたらせてくれませんでした。なぜならそれらの人間関係は、自分がサービスを提供し続ける限りにおいて存続するものだと感じられていたからです。相手のニーズを満たすことに失敗したならば、あの悲痛な夜の両親のように、手のひらを返し、裏切るに違いない。彼女の心の中では、他者は潜在的に敵でした。
彼女が「する」に成功している間は、他者は攻撃してこない。ひとたび「する」を失敗したら、他者は簡単に「いる」を奪う。それが彼女の心象風景でした。彼女は本質的には孤立していました。孤立とは一人でぽつんといることではありません。それは心の中で敵たちに取り囲まれていることなのです。

『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』東畑開人

「する」の中に「いる」や「ある」があると、「する」が成功しつづけているという条件的になってしまう。それらを混ざりあって、ワークアズライフになってしまうと、どこかで成立しなくなる可能性がある。だから私はワークの「する」とライフの「いる」「ある」を明確に切り分けるべきだと思っている。

仕事で限定的に自己成長するけども、それは自分のアイデンティティとはなんの関係がない。例えるなら、スーパーマリオブラザーズでフラワーをとってファイアーを出せることに近い。ゲームが変われば、アイテムも変わる。

そして「する」のコミュニケーションと、「いる」のコミュニケーションは全く異なる。「する」はミーティングで、目的があり、議題があり、決めるために簡潔にコミュニケーションを取る。「いる」は、あり続ける状態を維持することが目的なので、無意味な会話を延々と続けても問題はない。私も昨日、気づけば10時間以上雑談していた。当然、会議中にそんなことはしない。「いる」と「する」のは、混ぜるな危険なのだ。

結論「ある」ために、「いる」と「する」がある。

ここまで補助線引いて見えてきたことは、家族とは、「ある」を受け止めてくれる居場所のことを指し示すことだ。血縁があるなしは関係がない。まず起点となるのは「ある」ことから。

「ありつづける」ために、自分が無理なくできる創作を毎日し続ける。お金も時間もほとんどかからない。希望もなく、絶望もなく、淡々と創作し続ければいい。

その創作を評価もせずただ受け止めてくれる人がいるだけで、それは「いる」場所になる。「いる」場所があることで、創作できなかった人ができるようになる。続かなかった人が続けられるようになる。

「いる」と「する」は、明確に切り分ける。「する」の中に家族を入れてしまうと、家族も組織も崩壊する。混ぜずにお互いを認めて、補完しあうことがいい。

「ある」ために、「いる(家族)」と「する(仕事)」がある。ありがたいという言葉は、漢字で有り難いと書くが、「ある」のはとっても難しいことだ。だからもし今自分が「ある」状態がキープできてるなら、周りのパートナーや仕事仲間や顧客のおかげであり、感謝の気持ちを持ちたい。そしてその人たちとより良い関係を築くために、私は創作しつづける。

「ある」ことから全ては始まる。