終わりのないオセロゲーム
人類は、終わりのないオセロゲームを繰り返している、というのがこのコラムのテーマです。
どんな人にも「善良なこころ」と「悪魔のこころ」の両方を持っているのが人間です。ここでは、その善いこころと悪いこころをオセロの駒に例えたいと思います。
イメージとして1つのオセロの駒がくるくると回転しているイメージを想像してみてください。
このオセロの駒のようなこころは、日によっても白黒と入れ替わることが一人の人間の中で常に起きています。
だから、白(善のこころ)の日もあれば、黒(悪魔のこころ)の日もあり、それを常にくるくると回っている状態が人間のこころです。
例えば、Aさんが黒の駒の日とBさんが黒の駒の日に出会ったとします。すると、喧嘩が起きたりします。Cさんが白の駒の日でも、Dさんが黒の駒の日だとCさんをいじめるかもしれません。
人間が「こころの中にオセロの駒」を生まれつき持っているために、他人とのトラブルが起きるのです。
さて、世の中では、被害者は被害者、加害者は加害者という二元論的な考え方が浸透しています。たとえば、殺人を犯してしまった加害者は完全なる加害者として扱われ(過去の被害体験が背景としてあり、加害を起こしていたとしてもです)、虐待などの被害者は完全なる被害者として扱われるというように、被害者と加害者というものが、その人物によってどちらかに属すといった二元論的な考えの強さがあります。
しかし、本当にそうしょうか?人間は大人になって、過去に誰も傷つけたことがない、小さなことも含め加害したことがない人が果たして世の中に存在するでしょうか?(虐待を受けている幼い子どもは当然、一方的被害者です)。
直接的な被害者と直接的な加害者いう「立場」は存在します。しかし、自分が誰かから受けた被害は、自分が過去に誰かに(小さくても)した加害に類似したものであることは存在しないでしょうか?
過去に誰かから加害された被害体験が、今、別の誰かに加害してしまっていることはないでしょうか?
被害の裏には加害がある
加害の裏には被害がある
被害と加害は同根なのです。
自分にとっての加害者を責めれば責めるほど、過去に自分がしてきた加害に似ていると、ふと気がつくことはないでしょうか?加害者を責めれば責めるほど、自分の中に「矛盾」が生じてきます。
当然、加害者を法的に罰するなど、加害行為に対する謝罪や賠償を求めることは必要であり、それを否定し、加害者を赦せという意味ではまったくありません。
このコラムでは、あくまで人間のこころの中にあるオセロの駒とそれによって引き起こされる<被害-加害>の現象についてのみ述べています。
【追伸】「矛(ほこ)を収める」
「矛(ほこ)を収める」という武士の言葉があります。
例え、相手が悪い場合であっても、こちらが矛を収める(争いを止める)ことが未来へと繋がります。国も個人の関係もどちらかが争いを止めないことには終わらないのです。
人間関係は片方が一方的に悪いケースは少ないです。だから自分から「ごめんね」が言える自分になりたい。ただし、加害者に対し、法的に訴えるべき事例もあります。それは必要なことであり、法的問題にまって発展するケースについて、被害者側が争いを止めろという意味ではありません。
わたしは、拙著『わたし、虐待サバイバー』にも書いたように、解離性同一性障害(DID、いわゆる多重人格)で、主人格のわたしと、解離人格(攻撃人格)の主に2つの人格が存在していました。
拙著は、以下amazonより。
しかし、解離性同一性障害といっても、主人格と解離人格は、同一人物です。つまり、被害と加害は同根といったことと同じことが、他人間だけでなく自分間でも起きているのが人間なのです。
被害と加害は、他人間でもオセロゲームが白、黒と起き続けるし、自分間でも(主人格と解離人格)でも常にオセロゲームが起きている。
もっと解りやすく言うと、自分の中でも解離人格(オセロの黒い駒)に主人格は被害にあっている被害者だということです。自分が黒い駒のこころでした加害行為によって自分自身(白い駒)が罰せられたり、責められるという意味での被害者という意味です。
ここで補足ですが、解離性同一性障害は、虐待などの被害者に多い障害ですが、解離性障害にならなくても、どんな人でも、主人格(オセロの白い駒の善のこころ)と解離人格(オセロの黒い駒の悪魔のこころ)はもっているものです。それが障害というレベルで社会的に問題となる程度か、問題にならない程度かというスペクトラムの違いがあるだけで、誰しも解離性の要素はもっていると私は思います。
被害と加害の終わりのないオセロゲームを人類が自分間でも他人間でもずっと続けているということ。それが、人類がずっとやり続けていることであり、喧嘩、いじめ、DV、犯罪、虐待、戦争がなくならないのは、人類が「宿命的」にもつ「終わりのないオセロゲーム」という現象のためだと思うのです。
結局、戦争にしても、人が争うと、どっちが被害者でどっちが加害者かいつの間にか、解らなくなっていきます。
人間が宿命的に持っている本質。それは「終わりのないオセロゲーム」現象です。
他人は変えれません。だから、できることはたった一つです。
自分から加害をやめることです。
虐待の被害当事者として、社会に虐待問題がなぜ起きるのか?また、大人になって虐待の後遺症(複雑性PTSD、解離性同一性障害、愛着障害など多数の精神障害)に苦しむ当事者が多い実態を世の中に啓発していきます!活動資金として、サポートして頂ければありがたいです!!