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【元サッカー選手 早坂良太の自伝:大学〜Honda FC】

【病気】

大学2年次に、全日本大学選抜に入れたことで、プロの練習にも呼ばれるようになってきました。

しかし、プロという存在が身近に感じることは出来ましたが、自分がプロになれるということ、なれたとしても、プロで活躍することを信じきれない自分がいました。

なので当時は、就職活動教員採用試験、を卒業後の選択肢として活動していました。

その中でサッカーをやりながら色々な経験をさせてもらい、充実した日々を過ごしていた大学3年次、、

ある日の大学リーグの試合後に、心拍数が速くなったまま戻らなくなる、という症状が起きました。

その時は、バイトも夜遅くまでしていましたし、疲れているのかとあまり気にしていませんでしたが、何週間後かのリーグ戦でも、同じような症状が出てしまいます。

この時は、なかなか心拍数が元に戻らず、立つのがしんどいようになってしまいました。

流石にこれは何か異常があると思い、病院に行って様々なテストを受けます。

しかし、試合後と同じ症状が出るわけではなく、病院の検査では原因がわからずじまいでした。

なので、症状が出た時に自分で検査できるように、持ち運び可能な心拍測定器を病院からレンタルしました。

二週間後くらいにまた症状が出たので、自分で測定しそれを病院に提出。

すぐに、授業中に病院から電話がきて「できるだけ早く親御さんと病院に来てください」と言われ、
それを両親に伝えると、遠方に住んでいる父親がわざわざ来てくれ、一緒に病院に向かいました。

診断は「突発性心室頻拍」という先天性の不整脈の一種で、症状が出ているときの心拍数は200を超えていました。

よく倒れなかったねと先生に言われ、この状態でサッカーをさせることは、医者として認められない、ということを伝えられ、すぐにカテーテル手術をすることになります。

結果、入院することになり、状況的に就職活動、教員採用試験、サッカーと三つをこなすのは厳しくなりました。

ただ、これも何か運命だと感じ、私はあえてサッカーで将来を決める決断をしました。

想像をしても意味がないですが、病気が発覚しなかったらサッカー選手になっていたのだろうかと、ふと思うこともあります。

手術の後すぐに、デンソーカップという大学生にとって、サッカーで進路を切り開くにはとても大切な大会がありました。

それぞれの地域で選抜されたチーム(私は東海・北信越選抜)が集まって試合をし、そこで活躍すれば大学生の日本代表に入れます。

なんとか大会には間に合いましたが、2年次には選んでいただいた、日本代表には入ることができませんでした。

その後はJ1からオファーはなく、J2でのプロ入りを目指すか、熱心に声を掛けてくれていた、大学と同じ静岡県にある、Honda FCというJFLのチームに入るか、という二つの選択肢になりました。

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Honda FCというチームは、本田技研工業株式会社という世界規模の会社に属するサッカー部で、当時は全員が社員契約でした。

プロは目指さず、JFLという当時J2入りを目指すチームが所属するリーグに所属し、昇格を目指すチームの、門番的な役割をしていた、歴史のある伝統的なチームです。

施設はJ2のチームよりも良く、会社に社員として入社するため、引退しても会社に残り、社業に専念することができます。

怪我や解雇などリスクのあるプロに比べて、環境的に安定して、サッカーに取り組めます。

様々なことを総合的に考え、本田技研工業に入社することを決断しました。

【Key word】

運命、選択と集中

【あとがき】


先天的な病気が、なんでこの大事なタイミングなんだろう、と物凄く考えました。

でもそこに理由はなく、ただの事実出来事として起きているだけです。

その時に自分が、どう考えて、どう意味づけして、どう決断をするのか。

起きたことはもう変えれないので、状況の真実を捉えて前に進む。

それが大切なんだと気付かせてもらい、今も大切にしている考え方です。

どう生きたいか、どう生きるか、でも結局は、どう生かされてるか。

余談ですが、大学選抜で全国の強豪の大学生が集まってバイキングで食事をとっている時に、1人の選手が山のようにキャベツをお皿に盛っていました。

多分私の顔は(そんなにキャベツ食べてどうすんの?)という顔をしていたのだと思います。

その時にコーチが「早坂!こんぐらい頭がおかしくないとプロになれないぞ!」と言われました。

その時もしかしたら私はプロに向いていないのかもしれないと、真剣に思ったのを覚えています。

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