マガジンのカバー画像

Challenges in my life

11
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

"わたしはわたしという生き方しかできない"という自己受容と、"わたしには何ができるか"という他者貢献だけだった。そこに価値を与えてくれたのは、周りのみんなだった。そんな生活が、そんな人生が、好きだった。

わたしは、ずっといつまでも幼稚なんだ。自分の価値を自分で決めることもできず、大切な人たちに認められることでしか存続できない。でも、それでいいと思ったし、いまでも思ってる。価値があることと生きることは同義では無い。価値の有無に関係なく、生まれ落ちたなら、好きな時まで生きていい。

わたしがわたしらしく生きることで生み出してきた軌跡を、愛おしそうに、宝物かのように、抱き締めてくれるみんながいるから、わたしは宝物になった。生きる上で価値は必要ないけれど、価値がなかったら肩身が狭い。それを、愛情と呼んではいけないのだろうか。第三者からしか与えられない愛。

主語はIとYouとその他の、3つに大きく分類できると思うけれど、心について語るには、"自分という生命体"と"本心"と"自分以外の生命体"の3つに分けられると思っていて。自分から本心へ与えられる愛情に溢れているから生きれるけれど、生きやすくなるには、自分も愛情を受け取ったらいい。

人間は一人で生きれるわけじゃ無くて、様々な場所に依存先を持つべきだと思ってる。0でもなく、1でもなく。白黒ではなくて、グレーを適正量持つことが大切。

人間の持つあらゆる力よりも、事実の方が圧倒的に強い。それが真なのであれば。

地球外生命体の如く地に足つけずに生きていたわたしが、地に縛り付けられ理想とされる人間に型取られ、地獄に堕ちた。いち生命体から、いち個体へと改造された。価値という基準のもと優劣を付けられ、理想の評価を取ることが存在意義とされた。
わたしという生命体に価値など付随していないのに。

いち生命体の価値を図ることに意義を感じなかった。"わたしは、わたしたちは、どんな行動によってどんな価値を生み出せるか"しか考えていない世界に生きていた。そんな周りと生きていた。自己に関心がなく、生き物は等しく死ぬし、特別な存在などいはしない。偉大なる事実の前で人間は無力であると。

地獄では、生み出した価値は無視され、わたしという個体の価値しか見られず。その価値は、理想な個体であるかで図られた。わたしは"優秀で聡く大人の対応ができる都合の良い駒だが、周囲や弱者を護ることに対する頑なな意志があり余計なことをする使い勝手の悪い"存在だった。

孤独な闘いの中でそれでも信念を持っていられたのは、護るべき存在がいたからで。独りよがりでも護りたかった。そんな護るべき存在から価値無しと言われたときに、わたしの鬱人生が始まったわけだが、そんなわたしに価値を与え荷を共に背負い背中を任せてくれた存在に、わたしは救われたんだ。

わたしの信念を認め、わたしの生み出す価値を理解し、わたしという個体自身にも価値を与えてくれた。愛おしそうにわたしを護り、宝物にしてくれた。もう二度と一人で背負わなくて良いよう、共に闘ってくれた。頼れるよう、強くあってくれた。その全てが、わたしを救ってくれた。