読書記録(日記:2021年4月9日(金))
ここ2~3か月私生活でいろいろありすぎて、映画館どころか自宅ですらまともに映画を見られたもんじゃない状態がつづいていたのだが、だいぶ落ち着いてきたのでそろそろ再開したいところ。以下読んだ本の記録。
長嶋有『ねたあとに』(朝日新聞出版、2009年)を読み終わる。
要所要所で「うまっ!」「うっま!!」と思わず声を漏らしてしまう。特に「風呂場の脱衣スぺ―スの仕切り代わりに布を留めていた画鋲の1つが転げ落ちたまま見つからない」という些細なディテールが、じつは小説後半で多層的に回収される巧妙な伏線となっており(読者は語り手とともに「ビデオの画面越し」にそれを発見するのだ)、その小さな事件を経て山荘の「ルール」がささやかに更新される小説末尾で下記のような言葉に出くわすに至り、「た、たかが画鋲ごときで……ッ!」と困惑しつつ不覚にも感動してしまった。
「我々は無為なようで、立派に「住む」ということをしている。その営みは布のめくり方とか、床下のジャッキだとか、むしろめまぐるしく更新されている。こんな、台風の夜にも。」(p.328)
読んだのは2009年刊行の単行本版で、見返しには舞台となるコモローとおじさんの「山荘」の見取り図が付されているのだが、「読み易さ」を優先した結果の選択とは推測されるものの、本作に関してはこれは不要だったのではないか。言葉という「リニア」な媒体に書かれることで、図面のように空間を一望することができないまだるっこしさを我慢しながら冒頭を読み進め、あちこちに散らばる印象的な細部(長押に並ぶ切れた電球の列、CD部分が壊れているのでカセットしかかけることのできないCDコンポ、そばを通るとカタカタと音の鳴るタンス、など)を足掛かりに、語り手の久呂子さんとともに山荘の間取りと位置関係のネットワークを少しずつ編み上げていくうちに、空間への理解が「遅れて」やってくる、という読み手への「負荷」のかけ方こそがミソであることに加え、その理解の過程と、山荘で展開する独自のゲームのルールを「遊ぶ行為」を通じて内側から会得していく過程とが重ね書きされる構造になっているので。そう考えると、発表当初の「新聞連載」(2007年11月20日~2008年7月26日、朝日新聞夕刊にて連載)こそが一番理想的な形式だったのでは、とも思ったりする。(※高野文子による魅力的に「小さな」挿絵が毎日掲載されていた、という贅沢すぎる紙面構成もその理由の一つ)
並行してエドワード・W・サイード『オリエンタリズム』上下巻(今沢紀子訳、平凡社、1993年)を読む。
フローベール『ブヴァールとペキュシェ』を話の枕に、19世紀西洋(特に英仏)のオリエンタリズムの隆盛と、その方法論的洗練の過程をたどりながら、表象を表象たらしめる「テクスチュアル」な権力がいかにして作用するのかを具体的に論じていく第2章~第3章が圧巻。「オリエントを表象する=オリエントに代わって語る」オリエンタリスト(東洋学者)たちによって書かれた先行テクストが提供する解釈の格子を透かして「オリエント」を見ることで、新たな「オリエント」像が現実の東洋(本作では特にイスラム社会)を経ずにテクストからテクストへと再生産されていく(既存のテクストを「次から次へと無批判に書き写し」つづける「写字生」ブヴァールとペキュシェの末路と瓜二つである)、「オリエンタリズム」という名の言説産出のプロセスについて検討するうちに、オリエンタリズムの枠を超えて、広く表象一般の内部に生起するさまざまな力=権力の磁場(歴史・伝統・言説)に対する以下のような考察へと行きつくくだりが、何より刺激的だった。
(…)問題の核心は、ある事物の真の表象というものが実際に存在しうるものなのかどうか、また、およそあらゆる表象というものは、それが表象であるがゆえに、まず表象する者の使用する言語に、次いでその属する文化・制度・政治的環境に、しっかりとはめこまれているのではないか、という点なのである。もし後者が正しいとすれば(私は正しいと考えているのだが)、我々は、次の事実を認めなくてはならなくなる。すなわち、表象とは、それが表象であればこそ、「真理」以外の実に多くの事柄に結び合わされ、からみあわされ、埋めこまれ、織り込まれているのであり、「真理」とは、それ自体、ひとつの表象なのだということである。このことの方法論的帰結として、我々は表象(ないしは誤った表象――その差異はせいぜい程度の問題であるが)を、たんに内在的な共通の主題によってのみならず、共通の歴史・伝統・言説(ディスクール)の世界によっても規定された、ある共通の活動領域に宿るものとみなさざるをえなくなる。(…)いったん失われた写本を発掘する学者でさえ、実はすでに用意されたコンテクストのなかでその「発見された」テクストを創造しているのであり、それが新しいテクストを発見することの真の意味なのである。こうして、各個人の貢献がその領域内に変化を生じさせ、次いでそこに新たな安定性を促進させる。それはちょうど二十個の磁針が置かれた地表面に二十一個目が加わるとき、二十個すべての磁針がふれ、やがて静止して、そこに新たな調和のとれた配置が生ずるのと同じようなものである。(『オリエンタリズム 下』pp.165-166、太字は本文では傍点)
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