佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(日記:2021年4月15日(木))

佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(文藝春秋、2009年)を読む。

フランス革命を境に、「理性の世紀の人間」サド侯爵の軽妙(この時点ですでに「理性」の城壁がボロボロに崩れ去る寸前の状態にあることに注意)からボードレールの沈鬱に至るまで、世界が変質していく過程を書いた連作短編集。

読み終わり、佐藤亜紀氏の諸作が提示する「世界の見方」とそれが必然的に要請する「書き方=形式」を読み解く上で、表題作「激しく、速やかな死」はある種の「核」となるような短編なのではないだろうか、という印象を受けたので、以下感想を書いてみた。

※なお、本短編集は現在絶版となっているが、収録作のうち「荒地」(「捕食者たち」の新世界=資本主義社会の出現という、『吸血鬼』と通底する主題を扱っている)を電子書籍で読むことができる。

佐藤亜紀作品が提示する「世界の見方」として、以下の3つの要素を挙げることができるだろう。

ある既存の社会が決定的に変質する歴史的過渡期(本短編集ではフランス革命とそれに続く恐怖政治期~ナポレオン戦争を経て、いわゆる「近代」に至るまでの期間)に作品の時代が設定される

この設定によって、安定し(ているように見え)た世界の秩序(「激しく、速やかな死」では「以前わたしがいたところ」と印象的に形容される)が、その実薄皮一枚の表面上にかろうじて成立していただけであることが剝き出しにされる。そこから②が導き出される。

②その変質過程において世界の表皮に生じた大きな裂け目から、巨大な暴力(本作のギロチンやホロコーストのガス室など、「効率化された虐殺システム」がしばしば取り上げられる)が噴出する。その淵に呑み込まれる人間=死体も、裂け目の縁にしがみつく人間=群衆も、すでに「人間」のかたちをしていない。

フランス革命期の混乱のさなか、捕らえられ裁判にかけられた語り手の「わたし」は、ギロチンで「効率的」に処刑されるその日まで、巨大な半地下空間に収監されている。どこかピラネージの版画を思わせる暗く抽象的なその牢獄内には、自らの「誇り高い死」を断頭台上で遂行するために入口の鉄扉につづく階段上で延々リハーサルを繰り返す男や、枯れた花束を渡し合う行為によってかつての「逢瀬」を再演しようと試みる若い男女など、「以前いたところ=かつて所属していた安定した世界」の秩序をどうにか維持しようと、自動人形めいた不毛で機械的な動作を反復する囚人たちが散在している。あたかも発話する器官のある「頭部」の存在を忘却してしまったかのように、彼らは一切言葉を発することがない。(読みながら、レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』の、ガラス・ケースの中で生前の動作をひたすら繰り返す「死体たち」のことを思い出した)。

ところでこの自動人形たちとは対照的に、牢獄内で会話を交わす語り手と「自称哲学者」の2人には、特徴的な身体描写がほぼ存在しないことに注意したい(わずかに肉体的な動きを見せる身体部位は「顔」のみ、と言っていい)。つまり、地下空間に閉じ込められ斬首刑を待つ囚人たちは、その首を刎ねられる前からすでに「(対話する)頭」と「(動作を行う)身体」とが切り離された状態にあり、「以前いたところ」の秩序が保証していた、精神と肉体の統一した「人間」のかたちを喪失しているのだ。

さらに、牢獄の外のギロチン処刑場(世界の裂け目に現れる暴力装置)の周囲に沸き立つ群衆も、すでに個々の「人間」の姿を放棄した不定形の流動体(ナサニエル・ウェストの『いなごの日』終盤の描写を彷彿とさせる)と化している。人だかりに巻き込まれた語り手に群衆の熱狂が伝染し、「友愛」に似た「得体のしれない幸福感」に包まれていくさまにはゾッとさせられた。

③たとえ一度裂けた表皮が再び綴じ合わされたとしても、世界がかつての状態に回復することは決してなく、結果として、世界を表現する様式自体が決定的に変質する。

紙の上に木炭で描きつけようと試みる自身の絵について、語り手の「わたし」はジャック・カロの連作版画『戦争の惨禍』と比較しつつ、下記のように述べている。

(…)そう、油彩は向かない。洗練された線も華やかな色彩も、彼らには似つかわしくない。品のいい人たちが品のいい場所で見上げて、したり顔に頷いたり、隣の誰かと小声で印象を語りあったりするようなものではないのだ。ざっくりと目の粗い紙に木炭で素早く殴り描いたようでなければならない。均衡でも均整でもなく、素早い、生き生きとした、気まぐれで乱暴でさえある線の勢いと、見る者の目を釘付けにする誇張が必要だろう。幾度も長く見入るに足るものである必要はない。それは永遠のものではなく、一瞬現れて、強烈な印象だけを残して即座に消えていくもの、神々や英雄ではなく、まして聖人ではなく、他ならぬ我々の似姿だ。(「激しく、速やかな死」pp.41-42)

この記述は無論、作品が設定する時代から少し先に起こる、ナポレオン軍のスペイン侵攻を題材にしたゴヤの同名の連作版画を念頭に置いたものだろう。カロの「惨禍」が描く、均整のとれた遠近法の構図が前提としていた安定した「世界」もそこに住まう「人間」もすでに存在しないのだから、その手法自体が変質せざるを得ない。そこから「素早い、生き生きとした、気まぐれで乱暴でさえある線の勢いと、見る者の目を釘付けにする誇張」という、新たな表現様式が要請されることとなる。

さらに、ギロチンの刃が処刑者の首の肉を断つ瞬間を、まるで高速度撮影のような超スローモーションで細密に描く下記のくだりには、後の映画に代表される新たな視覚表現手法が予感されている、という見方もできるだろう。

 ――そう、よく考えれば、見えた筈はない、ということになります。ただ、わたしには確かに見えたと思えたんです。まるで目に望遠鏡を当てているように。それに時間の流れまで、蝸牛が這うように、砂時計の砂が細い首を逃れて落ちるのが一粒ずつ見えるくらいのろくなった。首の脇に刃が触れ、皮膚が軽く窪んで肉が剝き出しになり、その切り口が少しずつ広がって、骨に達した時さえ刃の速度が落ちることはほとんどありません。犠牲者は少しだけ顎を上げる。口は軽く開いて、そのまま緩む。噴き出した血は刃の裏側に掛かって、刃が落ち、首が落ち、がたんという音が聞こえた時にはもうほとんど流れきっています。(「激しく、速やかな死」p.52)

……以上、①~③までの各要素が1つの作品内でどのように機能しているか、その骨組みをすっきりと見通すことができる、という意味で、氏の小説作品群の「モデル」のような短編として、本表題作を読んだ。(なお、ここまでの議論は氏の小説講義書『小説のタクティクス』に詳しく論じられているので、そちらも参照されたい)

ところで、本作の冒頭は「わたしたち」という人称ではじまっている。

 わたしたちが入れられているのは、改築に改築を重ねる間に歪んでしまった建物の、半ば地下になった空洞だ。(「激しく、速やかな死」p.24)

この「わたしたち」は短編末尾の数行にふたたび登場することになるのだが、冒頭のそれとは明らかに質が異なっていることに注目してほしい。

(…)首には木の枷が嵌められる。鉄の刃が木の柱を滑る音がはっきりと聞こえ、首筋に重いものが伸しかかり、皮膚が裂け、何が起こっているのかも定かでないまま、わたしはわたしではなく、籠の中に放り込まれる首と荷車に積み上げられる肉の塊になる。
 これを読み終えたら、わたしたちのためにお弥撒を挙げて貰ってほしい。そこまでする気になれなければ灯明の一本も上げてくれればいい。死者のために灯明を一本。もちろんわたしは信じている訳ではない。だが以前わたしがいたところでは、そうすることになっていた。(「激しく、速やかな死」pp.54-55、太字は引用者)

語り手「わたし」が首を切り落され「肉の塊」となった、その数行先まで語りがはみ出してしまうこの驚くべき一瞬(本作の少し前に執筆された長編『ミノタウロス』末尾でも、同様のアクロバティックな手法が用いられている)において、世界の裂け目に呑み込まれた死体の側から「わたしたち」がつかの間姿を現すのだ。

以前、佐藤亜紀氏は自身のTwitterアカウントで、自らの執筆活動を「死者を悼む」「泣き女、弔い女」の仕事だと言及していたことがある(ご本人の意向により直接引用はしない)。このわずか数行の「語りのはみだし」部分においてのみ一瞬現れる姿としてしかとらえることのできない、歴史の裂け目に呑まれひき潰されたおびただしい数の死体たちを、「わたしたち」として悼むこと。それこそが離れ業的小説技術の達成によってのみ可能となる、氏の「泣き女、弔い女」の仕事なのではないだろうか。

 裏切り者のシモイス川は、あなたの涙を飲んで嵩を増す。草花のように萎れていく痩せ細った孤児たち。島に置き去られた水夫たち。征服された者たち。彼らの涙で川は溢れ、私の記憶を浸し、芽吹かせる。私は思う、孤島に置き去られた水夫たちを、捕虜たちを、征服された者たちを、それから全ての他の者たちを。(「漂着物」p.196)


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