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確かな手応えを持つこと|ひかり

このお盆に実家へ帰省し、今年は少し長めに休みがあったから、ずっと観てみたかった国立工芸館を目的に、帰省の合間に金沢まで足を伸ばすことにした。

他に予定を入れずに、工芸館の作品をゆっくり拝見し、美しい工芸品が並ぶ中で特に印象に残ったのが、松田権六さんの蒔絵の作品だった。
吸い込まれそうに黒く光った漆の上に、細部まで緻密に散りばめられた金粉や螺鈿細工の貝が発光する上品な美しさにうっとりした。

権六さんの特設展示室では、制作過程の映像を流していて、作品が出来上がるまでの工程全てを見ることができたのだが、一筆で現われる線の美しさや、金粉を撒く手の指使いなどの一つひとつが、権六さんの独特なリズムを持って動かされており、見入ってしまった。
そのリズムの中から、経験から技術を見出してきた、積み重ねられた時間の尊さが感じられた。


改めて、人の手でこんなにも精密なものが生み出せることに驚いてしまった。

同時に、人の手が作り出すものの確かさや必要性はわかっているはずなのに、精密なもの=機械という図式が、私の中で無意識のうちに大きくなってきているかもしれないことに気づいた。

効率を重視するタイパなんて嫌だ!と思っていたけれど、時間をかけることに扉を閉しかけている自分がいることにハッとした。

この気づきは大きな揺さぶりとなり、響きを残したまま金沢を後にした。


再び実家へ戻り、父の趣味である庭仕事を眺めていたとき。
庭の隅に置かれている、亡き祖父の育てていた盆栽に目が留まった。

13年前に亡くなった祖父は盆栽を育てるのが趣味で、住んでいた長屋の部屋の前にあった小さなスペースにぎっしりと盆栽が並べられていた。

祖父は本当に大切に育てていて、父が幼少の頃の家族旅行などは、盆栽のお世話があるからと、一緒に行ったことがなかったそうだ。

そんな祖父の盆栽も、今では父が水やりをしている程度で手入れをしていないから、美しい造形よりも自然に伸びたいように伸びた形になってしまっている。
だけれど、形は崩れても祖父が手を入れ続けた厳かな雰囲気は今でも滲み出ている。
実際、手入れされていた当時は、近所の小学校の卒業式に毎年依頼をいただいて、門出を祝うように祖父の盆栽が飾られていたそうだ。

祖父も技術を持った人だったのだ。
何気なく見ていた盆栽から、祖父が生きた時間の尊さを感じることができた。

持続と訓練によって得られる確かな手応えを持つことの必要性を権六さんと祖父の仕事から学び、自分の生活をかえりみる時間となった。
まずは今できること、暮らしの一つひとつを手応えを得るように作っていくことを大切にしようと思う。

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HAKKOU/リレーエッセイ
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