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「普通」「普通じゃない」に悩む、全ての人へ

この本、最初から最後まで全てが良すぎて、どの箇所をどういった切り口で紹介してよいか迷っていたらレビューが遅くなってしまいました。

今は「好きなことや自分の得意を見つけて仕事にしよう!」の全盛期だけれど、この本は、自身が感じる不得意や不便の改善を仕事にした生き方の本です。

著者の澤田さんは病的なスポーツ音痴だったことに加え、息子さんが、目が見えない障害を持って産まれたことをきっかけとして、自分も息子も生きやすい社会を作ることを決意します。

以前知ってハッとした考え方に「メガネがなければ近眼は障害になる。医学と仕組みと社会風潮で何が普通で何が障害になるかは変わる」というものがあります。

これは福祉の世界では「医療モデル」「社会モデル」と呼ぶのだと、この本で知りました。障害や疾病は皮膚の内側に原因があり、障害者の健常者化をしようという、戦後日本の風潮が「医療モデル」。それに対して社会の側に問題があるというのが「社会モデル」で、たとえば、車いすの障害者が生きづらいのは段差がある通路をつくった社会の側である、というこちらの考えが最近は優勢だそうです。

私自身は、もともと視力0.1もない、ド近眼。これがどれくらい見えないかというと、手を伸ばすと、自分の爪が見えないレベル。メガネやコンタクトレンズがなければ「普通の日常」は送れません。2009年に、レーシック手術をしてからは、「見えない」不便を忘れることが出来ましたが、(あれ、2008年かな…うろ覚え…)

病的に数字に弱いこと、物事がスケジュール通りに進まないと軽くパニックになること、飛行機や電車の予約があると極端に緊張してしまうことなど、もしかしたら人とは違う特性や弱点を抱えながら生きています。でも、それはみんな同じで、一人ひとり、違う弱点と不便を抱えながら生きているのだと思います。時代や切り口や住む場所によって、我々はみんな障害者なのです。

著者の澤田さんは、スポーツの世界で自分は健常者と障害者のボーダーライン、あるいは障害者側にいると感じているそうで、(※書籍以外では「障害者」という単語が刺激の強い言葉として受け取られがちなので「スポーツ弱者」と表現しているとのこと)ある意味、健常者の「障害者」化が自分の仕事だと言っています。

澤田さんは、障害者の疑似体験が出来る「ゆるスポーツ」を次々と生み出し、広めながら、障害者への「かわいそう」という偏見をゆるめるための
ブランディング活動をしています。

例えば、障害者スポーツに関して、障害者がスポーツをする=大変でかわいそう、というヘビーなイメージこそが、自分とは違う特別な人達、という偏見を作り上げてしまうので、伝え方をライトに。

その際のコピーライティングの工夫などが本書では事例として出てきます。

また、「普通」「普通じゃない」という表現に関して、「普通」な人は普通なことに、「普通じゃない」人は普通じゃないことにそれぞれ生きづらさを抱えているという重要な指摘もされていて、

「みんな違って、みんな普通で、みんな普通じゃない」が当たり前の社会が生きやすいという提案がされています。

物事を「普通」「普通じゃない」に分けるのではなく、相手の「普通」に興味を持つ。それが大切なのではないかと。

だからこそ、澤田さんは、相互理解促進と「普通」の拡張を、様々な活動を通じてしています。本書では「普通」の壁に悩んだ澤田さん自身の幼少期のエピソードにも触れられています。

また、障害者に「普通は~」という表現を使うことは、「普通の押しつけである」という考え方から、 #Futoo というハッシュタグの発案も。これには、「普通の結婚」や「普通の家庭」ではないとSNSで「普通ハラスメント」を受けまくっている…(笑)と感じていた私自身の経験や想いが重なり、この本を初めて読んだ日に以下の2つのツイートを、RTさせて頂きました。

このように本書は、「普通」と「普通じゃない」を同時に抱えながら生きていく我々が、「普通」という概念から解き放たれるためのヒントが、たくさん散りばめられています。(#Futoo というハッシュタグは広めたいので、ぜひ使ってください!)

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余談ですが(旦那観察日記のなれそめ編を見てくれている方は、このエピソード、わかるかも!)

著者の澤田さん、私と旦那が出会うきっかけになった「うんちんちんTシャツ」の考案者であり、「はあちゅう、このTシャツ、よかったら広めて」とちんちんの生えたうんちというユニークすぎるキャラのTシャツをくれた方です。

著作の中ではゆるスポーツに関わる前はギャグっぽいコンテンツを作っていたことと、息子の障害が見つかった時に、「息子が背負っているものに比べたら、自分の仕事ってなんの意味があるんだろう」と、仕事へのモチベーションが消滅し、エンタメを一切受け付けなくなった絶望の日々が出てくるのですが、澤田さんのギャグ仕事のおかげで、私と旦那が出会い、かけがえのない息子の命がこの世に産まれたことも、付け加えておきます。

澤田さんとは、不思議と街でばったり会うことが多く、私は澤田さんの活動や考え方にとても関心がありSNSを定期的に確認しています。(こう書くとストーカーみたい、笑)

そういった経緯もあって、この本はご本人から献本して頂きました。(関係性明示!)でも、別に頂かなくても買っていたし、気づきと学びが満載の良い本なので、生き方に悩む人も悩んでいない人も生きる意味を探している人も、全員必読です。

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私は、自分に起きることは良いことも悪いことも全て回り回って人のためになるのではないかと考えています。セクハラの告発をしたり、誹謗中傷の裁判を起こしたり、セックスレスや家事分担について語ることは全て私自身の問題ではありますが、それを見て、「励まされました」とか「考え方が変わりました」と言ってもらうことも多く、小さくではあるけれど社会を変えているのかも…と思えることがあるのです。自分に起きる出来事は、社会に繋がるメッセージを含んでいるし個人的な問題の解決は、きっと誰かの問題の解決にもなる。だからこそ、自分の人生を頑張ることは社会全体を変えることにつながります。

自分の「半径5メートル」を変えることが誰かの半径5メートルも変えることになる。その連鎖で社会が変わる。

28歳の時に書いた本にはそんなメッセージを込めましたが、
あの時から今も、このスタンスは変わっていません。

澤田さんの本では、私と同じ考えが「社会を変えるには、自分が前例になればいい」という表現になっていました。

話をこのnoteの冒頭に戻しますが、私も「好きを見つけよう」とか「得意を仕事にしよう」みたいなことはよく言います。でも、自分自身の仕事は、正確に言うと、得意と苦手を掛け合わせているんですよね。私の発信は、得意(文章)に苦手(ポジティブ思考)をかけ合わせた形式の物が多いんです。

うちの旦那みたいに根っからのポジティブには「ポジティブになるための考え方や本」は必要ありません。私は、自分が落ち込みやすく「元気に過ごすこと」が不得意なので、元気になれるための考え方や言葉を常に探し続け、
発信しています。
あと、文章が得意って書いたけど、文章は別に書けるだけであって得意ではないかもしれないな…喋るとか歌うとか踊るとかいろいろある表現方法の中でなんとか自分が出来るのが「書く」だけな気も。

澤田さんが本の中で「苦手」を「逆プロフェッショナル」と呼ぶと書いていて、「それいいな!」と感じました。「私、これ出来ます!」を武器にするのもいいけれど「これ、出来ません!」を武器にする生き方だっていい。

最後に。本書の結びに書いてあった「息子は経済観点での『生産性』は低いかもしれないけど周囲の人への『波及性』は高い」という言葉に、救われました。私自身、妊娠前よりも生産性は落ちたかもしれませんが、妊活、妊娠、出産を経て、わかる痛みや自分ごとになった社会課題が増えました。最後にもう一回、本へのリンクを貼っておきます。

▼ゆるスポーツについてはこちらもぜひ。


【「障害者」表記に関して】:SNS上で「障害者」という表記にすると必ず「障がい者」にしてほしい、というリアクションがあるのですが、私自身は、堀潤さんの以下のコラムを読んでから「障害者」と書くようにしています。「障害者=社会にある障害と向き合っている人たち」という捉え方だそうです。




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