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私の「美しい」、人の「美しい」、大勢の「美しい」

はじめに(結論)

写真にのめり込み、人が美しいと感じるようものが撮りたくなった。

色々考え、とりあえず絶景(上高地の紅葉)に赴いたが、思いのほかたくさんの学びを得ることができたので、書き記しておく。

ざっくりと、下記について記す。

  • 私が美しいと思うものとは何か

  • 必ずしも他人にとってはそう感じない

  • 多くの人にって美しいと思えるものとは

この気づきの結論は万人に美しいと思われる写真を撮りたいなら、あらゆる意味で”不自然”と思われてはならない。誇張や、意図のない無意味な派手さは白ける。あくまで”自然”でありつつも目を惹くような写真にする必要がある。」だ。

経緯

これまでは、例えば旅先で「美しい」と思ったものを撮ったことはあったが、その逆、美しい「と思ってもらうための写真を撮る」ことは無かった。

「そもそも美しいってなんだっけ?」となり、いくつかのテクニカルなアプローチを試みてきた。

考察を深めるにつれ、徐々に「花」という私のメインテーマがそもそも自分にとって本当に魅力的か疑問を持ち始めるに至り、もっと魅力的な被写体を探したくなった。

ポートレート、ストリートスナップ、夜景、風景写真 色々と候補がある中で、折角紅葉真っ盛りの秋ということもあり、紅葉の風景写真を撮るべく、上高地へ赴いた。結果は大正解で、物凄く感動的な景色に出会えたし、数々の幸運もあって写真に収めることも出来た。

ただ、記事を書くきっかけとなった学び・気づきは、その帰り道の車の中での自問自答にあった。

わからないなりにやりきったという充実感、超長距離を運転したり歩いたことでの純粋な疲労、絶景と評される景色と対峙したとて「作品」として落とし込みしきれない力量不足、それらを感じながら帰りの車で ふと「なぜ自分はこんなに紅葉に感動するのだろう」という問いが浮かんだ。

私の「美しい」と思うもの

私は花を、本質的に美しいものの象徴 のように考えている。
それと同じくらい、紅葉も美しいと感じる。なぜ?

自問その1:なぜ花や紅葉を美しいと感じるのか?

花や紅葉は一般的にも美しいと感じられるものではあるが、私は特に"色"に惹かれて花や紅葉を美しいと感じている。

燃えるような赤色、ペンキで塗ったような真っ黄色に染まった木々、それらが色とりどりに配置された山が真っ青な空にそびえ立つ景色は、自然風景の中でも群を抜いて美しいと感じる。

一般的な人の紅葉を美しいと感じる理由を考えるなら、、、
通常の緑一色の寒色系の景色が、秋のごく一瞬だけ、赤やオレンジや黄色など暖色系の景色に一変するその希少性、自然の神秘性に惹かれる

…などが一応理由としては挙げられる気がするが、本当のところはよくわからない。ちなみに、私が美しいと思う主要な理由は希少性や神秘性ではなく嗜好だ。

私は、ジャクソン・ポロックのペンキが飛び散った絵のように、原色に近い色が混ざること無く個々に存在している配色が非常に好みであり、紅葉はそれに通ずるレインボー柄だから美しいと感じる。これが個人的な理由だ。

自問その2:なぜカラフルを美しいと感じるか?好きか?(私見)

ここからはほぼ完全に個人的な話になる。

私がカラフル柄を好む理由は、結論から言えば「非常に目立つ」「目を惹く」こと自体が魅力であり惹かれるからだ と分析している。

大人しく控えめな性格だった私にとって、目立つこと/ものは憧れのような存在で、原色のカラフル柄は、色彩の世界における目立つ象徴的存在という印象がある。

あと、日本の大半、特に私の地元が色彩に欠く土地柄で、そこに飽き飽きしている点も挙げられる。

目立つことを本質的に避ける文化も影響してか、日本の、特に住居の色彩は極めて彩度が低い。地元だった神戸のニュータウンはほとんどが灰色と茶色の団地、木々の緑。地元含め日本の景観を「美しい」と感じたことはなかった。

ヨーロッパの色とりどりの町並みは、それこそ夢のような世界だと思っていたし、「カラフル」に対する憧れはこういった背景も影響しているかもしれない。

要約してまとめてしまえば「目を引く(目立つ)配色は魅力的だから」となる。

補足その1:美しいと感じる条件(私見)

上記では「紅葉した自然風景」になぜ美しさを感じるのか、について述べたが、より厳密には「広大な」という限定が渡しの場合付与される点を補足したい。

街路樹や落ち葉でも、紅葉を見たり、写真として表現することは可能であるが、私個人としてはそこに強くは惹かれない。

あくまでも、広大な大自然がそのダイナミズムを存分に表しているフィールドにおいて、それが紅葉している姿に魅力を感じる。

紅葉に限らず自然風景のジャンルにおいてはこれは共通しているようで、ある一部分を切り取ったものに、私は魅力は感じない。

人の「美しい」と思うもの

唐突だが、私は関西のおばちゃんが着ているど派手なシャツを普通に綺麗だと思っている(なんなら自分も着たかった)が、どうやらこれは一般的にはズレている様子で、大多数にとっては笑いの種でしかないらしい。

配色であったり、質感であったり、微妙な丈やサイズ感の組み合わせから作られるシェープであったりと、いわゆる世間のオシャレさんは「バランス」を重視されるし、評価もそこで行われる。

TPOというのも重要だそうで、その街に合った服 なんてものや、何より流行に沿ったファッションが要求される。

だが当然アイドルのステージ衣装はギラギラだったりカラフルでも全く問題はない。当時も花や紅葉は「美しい」とされていた。カラフルそのものに罪は無いはずだ。

ではなぜ大阪のおばちゃんの服はオシャレ認定されないのか?

恐らく「そぐなわないから」だろう。

ど派手な原色カラフル、蛍光色 といったカラーは、前述の通り圧倒的に目立つ・目を引く。これは紛れもない事実だ。

それが自然現象により発生する「花」や「紅葉」は、このカラフルさが「許されている」。なぜなら「自然現象だから」だ。また、アイドルのステージ衣装も同様で、「アイドルだから」ど派手で注目を浴びる衣装を着ていても、全く問題なく「自然」なのだ。目を引くことが目的でもある。

それだけ目を引くに足る存在か、が問われるわけだ。

なるほど、アイドルでもなんでもないそこらの庶民が原色カラフルを着用すると、それは違和感しかない。不釣り合いに注目だけを浴びる人物ならば、それはもはやピエロだ ということだろうか。

「目を惹く」と「滑稽」の境界線

紅葉に染まったカラフルな山を滑稽と表する人間は存在しないだろう。
だが花弁をカラフルに塗った花畑で入園料を撮る植物園があれば、嘲笑の的になるだろう。

アイドルグループが虹色のドレスで踊っていても文句を言う人はいないが、同じ服をきた大阪のおばちゃんが歩いていたら笑いのネタにするだろう。

「目を惹く」と「滑稽」の間には、見た目以外による線引きが存在するようだ。「自然」か「不自然」か というラインだ。

大勢が「美しい」と思うもの

自然で違和感がない という領分は超えない中で、どこまで美しさを引き出せるかが、恐らく「大勢の人にとって美しいもの」になる。一方で、この領分を「超えた」と判断されたものは一気に冷めさせる。

クリエイター側にまわってみて初めて痛感したが、この線引きは非常に難しい。

撮影方法を工夫した写真(一昔前の水晶玉や、花火の長時間露光で文字や図形を描く手法)や動画(スマホをスイングして動画のスライドを演出したり等)は称賛されるが、過度な加工は見向きもされない。

かと言って、工夫をしなければ人の目を惹けず、見向きもされない。不自然ではないが、人の目を惹くような塩梅が重要となる。

一番わかりやすい例が、めったに見れないレアな瞬間を捉えたもの。

交通事故の瞬間を捉えた映像、人が怪我をする瞬間の映像、スター選手のバットがボールを捉えた瞬間の写真(凡打じゃだめだが)、鳥が羽ばたく瞬間、雲海漂う山頂から捉えたご来光、普段目にすることができない海外の絶景 etc。要はリアルで目で見ても感動するタイプの代物たちだ。

他には、普段よく目にするものではあるが、切り取り方が新しいもの。

ただの葉っぱをこんな表現で撮るのか、であったり、建物を抽象画かのように切り取ったり。「目のつけどころが、シャープでしょ」とでも言えるようなものだ。

あとは、完全な作品。

写真ではコスプレがわかりやすいが、全く自然ではないが、何かを表現するために徹底して世界を作り上げたもの。動画なら、映画だろう。

さて、どれを選ぼうか。

最後に

もし、大多数の人から「美しい」と評される写真を撮りたいならば、大多数の人が美しいと感じるものが何かを察知できる美的感覚が必要になる。

私の好みと大多数の人の感覚が一致していれば良いが、前述の通り、必ずしもそうでは無いため、それが「私固有の美しい」ものか、「一般的にも美しい」ものか、明確に判別できるようになることが第一歩となるだろう。

その為には、一流と評される写真家の作品を知るべきだろう。何が評価されるか、それはなぜ評価されるか、知る必要がある。

媒体によっても異なるだろう。
大判のプリントが飾られる写真展で評価されるか写真、写真集として評価されるか写真、Instagramで評価されるか写真、全て異なると予想される。

色々見て、「他勢に評される写真」とはどういったものか、を学び取ろう。

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