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ショートショート 「誘惑」

 この店を手放すまであと1週間足らず。
 
 思い起こせば、我武者羅に働き爪に火をともすような生活をして貯めた独立資金。

 苦労して貯めたその資金を頭金にすることで銀行から融資を受け、自分の理容室を開業した時の喜びと誇りを一生忘れることはないとサトルは思った。

 開業後、売上げは順調であった。
 もともとサトルの理容師としての評判は高く、特に顔剃り部門では全国規模のコンクールで優勝するなどの実績があったことから地元誌などにも取り上げられることがあった。
 そのため、前に勤めていた理容室からの常連客の多くが来てくれたことに加え、そのような記事を読んだ客がわざわざ遠方からもやって来てくれるなどしたからである。

 サトルは雇われ理容師の修行時代から一心不乱に働き続けた。
 理容という仕事に関係ないものには一切興味を持たず、また近づけることさえも良しとしなかった。

 ある日、サトルの店に飛び込みの営業でやってきた生命保険の外交員がいた。
 これまで訪問販売員などのお客ではない来訪者は自分の店に入れることなくすぐに追い返していたサトルだったが、単に魔が差したのか、それともその保険外交員の真剣な眼差しに何か思うところがあったのか、何故か店の中に入れてしまった。
 たまたま客がいなかったというタイミングであったこともその要因の一つだったかも知れないが、サトルにしては本当に珍しいことだった。
 
 それがリエとの最初の出会いであった。

 リエが色々な世間話を交えながらするトークにサトルは引き込まれていった。
 リエが話術に長けていることはわかったが、それが決して人をたぶらかすようなものではなく、サトルがそこまで言っても大丈夫かと思ってしまうぐらい保険商品のデメリット面などをさらけ出すなど真摯な内容で、その説明を聞きながら、この人は絶対に信用出来るとのイメージが強くサトルに残った。

 ただ、流石にその場で生命保険に入るようなことはせず、話を聞くだけ聞いて次の客の来店を機にその日は帰ってもらった。

 それから日を置かずして再びリエが店にやってきた。
 サトルとしては実は嬉しくもあったのだが、この前と違ってその日は店に客がいた。
 日を改めて出直して欲しいと言ったところ、サトルのことが載った地元コミュニティ誌の切り抜きを手に今日は客として来たという。

 それならと多少待たせることにはなったが、サトルは生まれて初めてという顔剃りをリエに施すことになった。
 リエの顔にカミソリを当てながら、サトルはリエの顔をまじまじと見ることができた。そして、改めてその顔立ちをつくづく可愛いらしいと思ったのだった。
 
 リエは、前々から顔剃りに興味があったところ、たまたまサトルの記事を読んだので試して見るならここだと思い会社の休みの日に来たということで、 特段友人の結婚式に参列するなどのおしゃれをするためではないということも聞き出すことができた。
 
 理容室であるサトルの店には成人式や友人の結婚式への参列のためなどで顔剃りに来る女性客が少なからずいたが、本人の結婚式のためであることが一番多かった。

 リエからお客として顔剃りに来たという言葉を聞いてからずっと本人の結婚式のためではないかとの不安がサトルの心に生じていたが、そうではないことが分かった今、心底ホッとしている自分にサトルは気づいた。

 二人が接近するのに時間はかからなかった。
 交際を経て二人は結婚した。
 そしてリエは会社を退職し、サトルの店を手伝うようになった。

 この結婚がまたサトルの運気を向上させることになった。
 どちらかと言うと無口で職人気質なサトルと人当たりがよく聞き上手、話し上手でもあるリエの接客術が見事に調和し、これまで以上にサトルの店は繁盛していった。

 いや、サトルの店ではない。サトルとリエの店である。

 あれほど大切にしてきた自分の店以上に大切なものがサトルにできた。
 リエ、そして、リエが妊娠した今は生まれてくる我が子である。
 リエ、我が子、店。この三つを守るためには命をかけてもいいとサトルは思った。
 
 リエが妊娠してからサトルはますます張り切って働いた。
 リエとのおしゃべりを楽しみに来る常連客も多かったため、リエも大きなお腹を抱えながらギリギリまでお店に出てくれた。
 店は活気と笑い声に溢れ、サトルの目の前にはただ明るい未来だけが広がっていた。

 経営的にはリエが産休に入ることが気がかりだったが、リエの遠戚で、リエが出産し保育園が見つかって復帰するまでの間だけでも店を手伝っていいと言ってくれる者が見つかった。

 そうして、今からちょうど1年ほど前にリエは産休に入ったのだった。

 幸い、リエの親戚の子はリエに似て明るい性格でお客さんとの会話もハキハキとこなすことができるようだった。これで何の憂いもなく安心して待望の我が子の誕生を待つことができるとサトルは喜んだ。

 ところが、リエが産休に入って5日後、早々に店を閉じなければならない事態が発生した。 

 サトルが高熱を発したのだ。
 病院に行ったところインフルエンザと診断された。
 高熱が続き体もだるく、とても店を開けることが出来なかった。常連客にうつしてしまうことも怖かった。

 しかし、もっと困ったのは、サトルよりも先に高熱が出ていたリエもまたインフルエンザに罹っており、しかも相当重症化してしまったことだ。 

 そして、信じられないことに、あれよあれよという間にあっけなくリエが帰らぬ人となってしまった。お腹の子も助からなかった。

 その後のサトルは抜け殻だった。
 インフルエンザを発症した時期から判断して自分がリエにうつしたわけではないということだけが救いだった。

 しかし、じゃあいったい誰がリエに。
 そのことがサトルの頭から離れなくなっていった。

 あれだけ大事にしてきた常連客に対してさえ、インフルエンザの菌を持ち込んだ犯人探しをしていると思われるような探りを入れる質問ばかりしてしまうことを我慢することができなかった。

 そうなると常連客は、一人また一人とサトルの店から遠ざかっていった。

 サトルは、興信所にも依頼した。
 だが、結局無駄足に終わり、それ相応の出費がさらなる痛手として残っただけであった。

 人が変わってしまったサトルに、店を手伝ってくれていたリエの親戚の子も逃げ出した。

 ただでさえ無口なサトルであったが、今やニコリともしない店主が一人いるだけの店に客は誰一人として寄り付かなくなった。
 サトルの店は、この一年で閑古鳥が鳴く店と化してしまっていた。

 この店にいると、リエと一緒に乗り越えてきた苦労や楽しかった当時を思い出してしまう。
 そういったこともこの店を人手に渡す決意をした一因でもあったが、何よりサトルにはもうなんの執着も未練もなかった。
 
 将来の希望も何もなく、ただ自分一人が食べていくためだけに働くのであれば経営など煩わしいいことに気をとられず、他人に指図されるままにただただ忙しく手を動かしていた雇われ理容師時代の環境に戻るのも悪くないと思ったのだ。
 何よりこの状態では、経営を続ける資金が続かない。

 時々、自ら命を絶ってしまいたいという欲望に負けてしまいそうになる。
 結婚前にリエに薦められて入った生命保険がある。
 これがあれば銀行からの借金も完済することができ、誰にも迷惑をかけることはなくなるとの考えがサトルの頭をよぎりだしていた。

 今でも自分の代名詞である顔剃りのための大切な道具であるカミソリの手入れだけは毎日欠かさずに行っている。
 しかし、そのカミソリを手にした時が一番危なかった。
 知らぬうちに自分の首筋にカミソリの刃を当ててしまいそうになるのである。

 店を手放すまで後わずかとなった今日もその欲望を何とか押さえつつ、カミソリの手入れを終えた。
 もうすぐこの店を手放す日が来る。その日が自ら命を絶つ日になるのだろうか。そうサトルが何気なく思ったその時だった。

 ガチャッ。久しぶりにサトルの店の扉が開いた。

「あー、良かった。今日は待たなくていいみたいじゃない」
 どことなく見覚えがある派手目の女性がずかずかと中に入ってきた。

「また来ちゃたわよ、顔剃りに。前は相当待たされたから覚悟していたんだけど、良かったわ、他のお客さんがいなくて。あら、あの感じの良い奥様は。ああ、そうか育休中よね。またあの方とおしゃべりできたらって思ってたんだけどしょうがないわよね。子育てでお忙しいんなら」

「あのー」

「あらっ、覚えてないの。でも1年ぶりじゃ仕方ないわよね。でもさ、私、このお店の顔剃りが気に入っちゃって。このお店の宣伝だってすごくしてあげているんだから、本当よ。ほら、あたしの『X』見てみる」

 女性が誇らしげにかざすスマホには、サトルの店の外観と会計の時に撮ったと思えるリエと顔を寄せ合った自撮りの写真をポストしている『X』の画面があった。

『友人の結婚式で◯◯市にきています。結婚式の前日、名人がいるというお店で顔剃りをしてもらいました。これで明日のお化粧もバッチリ+新郎の友人をゲットのつもりだったのに。なのに、なのによ、なんとその日の夜に高熱が出てインフルエンザでダウン。結婚式だってドタキャン。新婦に訳を話したら、大事な招待客にうつしたら困るから絶対に来ないでなんて失礼じゃない。◯◯市に来る前から少し熱はあったんだけど無理して飛行機乗ってここまで来てあげたのにさ。でもお陰で会社は一週間休めるし、このままこっちのホテルに滞在して熱が下がったら顔剃りのお店の奥さんに教えてもらった美味しいお店に行きまくるわよ。その奥さんって本当に素敵なの、私のおしゃべりにずっと付き合ってくれるし、産休前でお店に出てくる最後の日だって言っていたから出会えたのが超ラッキーって感じ。せっかくの顔剃りは無駄になっちゃったけど、早く良くなって◯◯市を思いっきり楽しんじゃおうっと』

「どうぞ、こちらへ」
 一年ぶりに微笑みながらサトルは女性を理容椅子へと案内した。

「どう、私の『X』見て来たって言う人いたんじゃない。私なりにこのお店に貢献しているのよ。あれからさ、私、顔剃りにはまっちゃって、私の地元でも時々やってもらったんだけどやっぱりここが一番。たまたま会社の出張で昨日から一泊でこっちに来てたのよ。で、仕事終わって帰りの飛行機までの時間にここで顔剃りやってもらえたらと思って、一か八か空港に行く前に寄ってみたのよ。よかったわ、すぐにやってもらえて。あんまり時間ないから少し急いでくれるとありがたいわ。あっ、でもこの前みたいに丁寧にお願いね。奥様がいなくて本当に残念、よろしくお伝えしておいてね。そうだ、たしかあの時、女の子の予定って言ってたわよね。じゃあ、その子にもよろしくね」

 サトルは、理容椅子をゆっくりと倒し仰向けになった女性の顔に蒸タオルをやさしく掛けた。
 サトルの顔剃りを期待しておしゃべりなその口を閉じた女性は、今や白い首を無防備にさらけ出す格好となっている。
 うっすらと頸動脈が浮き上がるその白い首を前に、サトルはカミソリを手にした。

 この誘惑に勝てるだろうか。


政府広報オンライン「病気予防」から抜粋
https://www.gov-online.go.jp/useful/article/200909/6.html