ストレスの発散、自覚
去年の暮れから、キックボクシングを始めました。
ですが、私は特別、格闘技が好きなわけではないのです。
格闘技の試合中継などが偶然テレビに映っても、平気でチャンネルを変えていたくらいです。
それでは何故?と思うでしょうか。
「心身の健康のため」というのが、主な理由です。実際に、いつもそのように答えています。
しかし「それなら格闘技じゃなくていいじゃないか。痛そうだし…。」と思われるでしょう。
むしろその「痛そう」が重要だったのです。
もう少し解像度をあげて当時の心境を思い出してみると、「怪我してみたい」「殴られてみたい」という気持ちがありました。
マゾヒズムに目覚めた!というわけではありません。
しかしマゾヒズム的な感覚が生きる上で、ある程度必要だと思ったのです。
つまりどういうことかというと、
「ちょっとくらい壊れたところで死にはしない」
という現実を、自分に馴染ませたい!
そんな風に考えたのです。
危険を察知する能力は、命を守るため、不可欠な機能です。
しかし、必要以上に危険を恐れていては、自分の行動範囲を狭め、安全圏に引きこもることになります。
この危険察知の機能は、ある程度鈍感化(最適化)することが必要なのです。
まぁシンプルに言えば、強くなりたいと思ったということです。
そんな風に意気込んだものの、いざキックボクシングジムに通い始めてみたら、私はおどおどしてばかりでした。
鏡の前でフォームをチェックしてみたら、自分の体がヒョロヒョロで、恥ずかしくて直視できない。
ヒョロヒョロが、一丁前に拳を構えているのを見ると、「弱そう笑」と思って、つい顔を背けてしまいます。
また、コーチにフォームの悪い点を指摘されると反射的に「すいません…」と言ってしまうし、経験が長く強そうな人たちがいると、「初心者の私なんて邪魔ですよね」などと考えてジムの端っこでコソコソしていました。
しかし、私と同時期にジムに通い始めた女性をみて、周りを気にするのがバカバカしくなったのです。
その女性は、初心者だとか下手だとか一切気にせず、コーチに「ミット打ちお願いします!」とはっきり言い、力の限りミットを蹴り「楽しい!」と言うんです。
彼女をみて「私も、何一つ遠慮することなどない、周りを気にせず純粋に楽しもう!」と意識を変えました。
自分の体を、目一杯に、伸ばして、縮めて、捻って、そうして壊して。治したら、また壊して遊んで、治す。
繰り返しながら、自分の体をコントロールすることを覚える。
最初はよく拳を痛めたし、一週間筋肉痛が続いたりしましたが、肩や背中の筋肉が、みるみる大きくなっていくのを実感しました。
鏡の中の自分とも向き合えるようになりました。
「すいません」は「ありがとうございます」に変わったし、性格もいくらか明るくなったと思います。
効果が出るとやはり楽しい。
ジムに通うペースを週一回から二回にして、徐々にのめり込んでいきました。
「心身ともに健康」になってきたし、
「ちょっとくらい壊れても死にはしない」し、むしろ強くなるということを実感していました。
しかし、ある日、いつも通りミット打ちを終えた後、コーチにこんなことを言われたのです。
「ストレス発散になりますよね。」
私は、そうですね!と笑顔で答えました。
しかし、そのやりとりは、家に帰ってからも、どこか引っかかるような気がしました。
笑顔で「ストレス発散した」という自分に違和感を感じたのです。
たしかに、キックボクシングで、思い切り身体を動かすことによって、ストレスがかなり発散されています。
しかし発散された分、ストレスの存在が浮き彫りになりました。
つまり
「私は、ストレスを貯める生き方をしている」
ということに他ならないのです。
「生きていればストレスくらい溜まるでしょ」
と、そんなふうに仰る方も多いと思います。
確かに、それはその通りだと思います。
だから、ストレス発散の方法を持っているということは、生きる上で非常に重要なことだと思います。
また、その方法を複数持っているならば、ストレスに対処しやすくなるでしょう。
私はキックボクシングの他に、絵を描くことを趣味にしています。また外食や美味しいお酒を飲んだりすることも好きです。
しかし、それらを「ストレス発散のためにやってる」と考えると、途端に楽しさに陰りが生じました。
そして私の場合、ストレスの原因は明らかです。
会社に勤めているということです。
私の勤め先の労働環境は決して悪くありません。定時で帰れます。
しかしあくまでお金のために勤めているのに過ぎません。
やれなくはない仕事だから、なんとなくやっている。
好きでやっていることでもないのに、勉強したり資格をとることを要求される。
もっと絵を描いたり、好きなことを学んだりしたりしたいと思っても、勤務時間は私の勝手で削ることはできません。
つまり私は、「お金のために、起きている時間の半分以上を勤め先で浪費し、その稼いだお金と余った時間をやりくりして、貯まったストレスを発散する」という生き方を選択しているという状態です。
こんなのはおかしい。私はわざわざ、私を苦しめる選択をしながら生きている。ということに他ならない。
「ストレス発散」は対処療法に過ぎないのです。
対処療法は悪ではありません。適宜、活用する必要はあると思います。
「ストレス発散」を、消火器で例えてみます。
火事が起こってしまった際には、消火器は有用です。手持ちで使う消火器だけでなく、自動で火事を感知して働くスプリンクラーなどの消火設備もあれば、被害を軽微に済ますことはできます。
しかし日常的に火事が起きていて、その度に消火器やスプリンクラーを使い、またその都度に消火設備のメンテナンスやアップグレードのためにお金をかけている、そんな状況を想像してみてください。
そんなのはバカげているのは、誰の目にも明らかです。
しかし実際問題、私は、日常的に火事を起こすような生活を選択しているのです。
それではどうしたらいいか、答えは明らかです。
ストレスの原因(火元)を特定して除去し、ストレス(火事)を発生させないようにする。
ストレスの貯めないで、純粋に好きなことを楽しむ生活と、
ストレスを貯めてその発散に追われる生活。
どちらがいいかは自明です。
それでは、ストレスを貯めないで好きなことを楽しむにはどうすればいいか。
これからその方法を考えてみますが、その前提として、今まで述べてきたような「ストレスの自覚」が必要となります。
そして、「ストレスの自覚」には「ストレスの発散」が、絶対に必要です。
「対処療法に過ぎない」とか言った後ですぐに「絶対に必要だ」というのは、変な感じがしますね。
何故絶対必要なのか、先ほどの例えで言いますと、一時的にでも、「火事がおさまっている状態」を作り出さないと、落ち着いて考えることができないからです。
落ち着いて考えられないと、この先、生きていく上で重要な鍵になる「自分の欲望」を見つけることができません。
火事の中からそれを探し出すことは危険です。
なので、とりあえず消火する=ストレス発散の方法を手に入れるのは必要不可欠だと思われます。
ただし、過度な飲酒や暴食は、消火するというより、別の痛みや興奮で、熱さを一時的に忘れるだけに過ぎないので、それはストレス発散ではなく、ストレスから逃避であることを留意する必要があります。
衝動的にそういった行為を行なってしまうのはある程度仕方ありませんが、まずは趣味を見つけて、何かに夢中になる時間を作ることが大事です。
私が人に勧めるなら、キックボクシング、と言いたいところですが、まずは一人でもできることの方がいいかもしれないというような気がします。手軽なのは銭湯に通うとかでしょうか。いわゆる「整った」を感じられるなら「乱れた」も感じられるので、ストレスの自覚に直結すると思われます。
長くなったので、今回はこの辺で。続きはまた書きます。
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