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初めまして、佐々木です

こんな時間からこんばんは。佐々木はるかと申します。日本のどこかでSEして障害年金貰わねば生きていけぬ躁鬱(がメイン障害の)人間です。この1文だけで私がどれほどの欠陥人間か分かったことでしょう。そんな欠陥人間がどのようにしてこの歳(20代半ば)まで生きてきたか、薬が効くまで話してみようかと思います。こんな日は80年代プレイリストが身に染みるぜ。特に「ルージュの指輪とか」「DESIRE」とかな。まあ途中までダラダラと半生を語っているだけなので、すっ飛ばしてもあんまり問題ないです。

1.誕生から小学生くらいまで

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の合間に生を受けました。なんと不幸な時代でしょうか。まあ私は生憎記憶にありませんので深くは話せませんが。

サラリーマンの父と、20代を働き遊び尽くしてその終わりで結婚した専業主婦の母との間に生まれました。平々凡々中流階級というものだったのではないかと思います。全く健康に生まれたと聞いています。幸せだったんだろうな。

私が自我を持ち始めたのは幼稚園生の頃くらいからです。4歳の頃に弟が生まれました。そこから、少しずつ母の私に対する対応が変わったような気がします。よくある話です。

「お姉ちゃんらしくしなさい」

この言葉は、永遠に繰り返されることになります。なぜなら、小学校1年の時に上の妹が、4年の頃に下の妹が生まれるからです。

実に、私の母は褒めるのが下手な人間だなあと思います。小学校でテスト100点とっても「当たり前。褒めるなんてもってのほか」とか言われていました。4年にして、乳児にミルク与えたりお風呂浸からせたりしてました。そうやれって言うものだから。褒められた記憶があんまりないんですよね、あっはっは。

2.中学生時代

中学はなあ、結構色々ありました。特に印象に残っているのは、部活での総無視つまりいじめですね。肌荒れがひどく、顔全体に吹き出物があったりして、見た目も酷かった。

「お前は器量よく産めなかったしなあ」

「汚いw整形でもすればw」

そして部活の副部長を任されて、色々意見しだしたところ

「あいつ、意見ばっかでうざくね?」

そして総無視です。挨拶しても後輩からも無視されてました。結構堪えたなあ。あっはっは。

で、それを親に相談したところ

「いや、そういうことが起こるのはお前のせいでしょ」

と痛烈な、しかし核心を突かれました。立ち直れなかった…というわけでもなく、特に休みもせず、学校には行きました。

3.高校受験

で、まあ人並に高校を受験することになります。家にお金がない(4人も育ててりゃ、そして習い事させてれば当然)のは理解していたので、地元の公立進学校を選択。しかし、学力がそこまであったわけではないので誰からも期待されず。しかし奇跡(?)は起こり、見事志望校に合格しました。

「お前が受かるなんて!まぐれでしょw」

4.高校時代

高校に入ってからは友人もでき、比較的安定して過ごせると思いましたが、リーマンショックのあおりを受けたのか、経済状況が不安定になったようです。その時、私たち4兄弟を前に母が一言。

「お前たちなんか、産まなきゃよかった」

今でこそ、出張ばかりで家にほとんど父がいない状態で、経済が傾けば辛くなるということまでは理解できます。だけどこの言葉はいまだに納得していないし、許していません。許すつもりもない。

生理の話をしても、なぜか無視されるし。都合のいいこと、愚痴は聞かされるし。次第に、母が苦手になりました。そして、大学で家を離れる決意をしました。

5.大学受験

高校3年。受験期。家にお金が無い、後ろの兄弟たちにお金を残さなければという思いで国公立志望。でも学力が足りず、都内の私立に通うことに。親に学費を頼むときに頭を下げて「お願いします」と言いました。結果

「まあ、こんなもんだと思ってたわw」

より一層、家族と言うものに疑問を持ち始めたころでもあります。

6.大学時代

大学生の本文として学問を修めようと奮闘していた時に、元の彼氏と出会いました。彼は見た目が(相対比)で良く、趣味もそこはかとなく合う感じでしたので付き合うことに。それがまた悲劇の始まりというか、なんというか。

その彼の愚痴を共通の友人(であった人)に言ってしまっていました。何度も何度も。その人は、彼には絶対に言わないと言っていたのですが、まあ人とは信用ならないもので、彼のもとにその愚痴が届いていたようです。

「俺の悪口はもう絶対誰にも言うな」

この一言で、とりあえず別れることに。「絶対にまた振り向かせて見せる」なーんて甘い言葉言っておいて、その翌日にはネットで知り合ったどこの馬骨かもわからぬ男性と身体を交えていました。それは別に、彼には関係ないことだと思っていたし、何なら別れているからどうでもいいじゃん的に思っていました。危険な行為なのでみんなやらないでね。

でも、この行為を知られて、なぜだかまた付き合っている前提に戻されておりました。あれぇ。今でなら、そういうのを束縛とかストーカーとか言えるんですけど、当時は自分が悪いの一心でした。

その後、彼に嫌われるのが嫌すぎて(何されるかわからない的な)、音信不通になるなどになると情緒不安定さが露呈してくるようになりました。友人に「カウンセリングとか大学で受けられるらしいし、受けてみたら?」と言われ、受けることに。

初回で受けたときから、そのカウンセラー(いいお姉さん)はやばいということを認識していたようです。相当疲れている。言動が自責的。そりゃやばいわぁ。わはは。そのお姉さんに勧められ、精神科を受診しました。

7.躁鬱との出会い、戦い

下された診断は、躁鬱病でした。なんというか、自分のやばさに名前が付くだけですごく安心するものなんだなあと感じた記憶があります。

ただ、その当時の主治医はあまり話を聞いてくれる人ではなく、薬を出すことが仕事というタイプの人でした。それが嫌で、1年くらい断薬しました。察しの良い方はお分かりかと思いますが、躁、それも激躁状態になりました。日替わり定食並みにネットで男性を漁り、リアルで落ち合っては身体を交える生活をしていました。睡眠時間もおかしくなっていました。

彼はというと、浮気を発見すれば泣くし私に罰として罰金だのGPS追跡だの監視カメラだのを付けていました。当時はそれが当たり前だと思っていました。

「浮気をしてしまっている」という「罪」の思いから、彼の課題や論文を肩代わりすることも多かったです(違う学部、違うキャンパスでした)。卒論も、ほぼ私が書いてました。それで自分のと彼のと両方Sランクとってるんだから私すごいよな(自画自賛)。

8.就職、そして休職

まあ遅かったにしろ、私も某IT企業にSEとして無事就職しました。ちなみに病気はクローズ。主治医は引越しの関係で病院ごと変えました。これがのちに功を奏すことになります。

クローズといっても、すぐばれるんですよね。ばれて、問われて、今も会社と調整中って感じです。

で、まあ半人前とはいえ、試用期間が終了し、客先へ。そこで客先のお偉いさんとガチの喧嘩をしてしまったりと、病気の兆候がうすうす見え始めました。

その彼は大手企業に属し、私よりも高い給料をもらいながら、私の家にほぼ入りびたり(来てっていったのも悪いのですが)。光熱費、家賃等はすべて私持ちでした。手取り20どころか17くらいなのにきちいよ…それは…とかとか、色々重なってしまい、暴力も振るうようになってしまいました。

それで、社会人2年目の9月に主治医に限界であることを伝えました。

「どうして、私は死ぬべき、邪魔な存在なのに、死んじゃいけないんですか?」

こうして、半年間の休職に入りました。もちろん、その時の生活費も私が負担していました。底をついたとき、だれも頼れない、消費者金融でさえ無理ということがわかり、彼氏に頭を下げて当面生活費を払ってほしいとお願いしました。まあ、気づいたら40万の借用書を書いていました。こええ。

まあ、その彼とは3月に別れました。お金の件は残っていますけどね、一応。

で、そのあとにネットで知り合った3歳上の男性といま付き合っています。この人がめちゃくちゃいい人です。後述します。

9.復職、そして現在

そんなこんなで、復調するわけもなく、でも金もないので仕事に復帰したい旨を今の主治医に話しました。その時はおそらく躁状態だったのだと思います。それが今年の5月。

最初の2か月はよかった。でもそこから崩れました。2週間会社休むとかもザラでした。

そんな中、叱咤激励してくれたのが今の彼氏です。お金が無いから何もできない。障害があるから何もできない、と嘆いていた私にこうやさしく言ってくれました。

「休むのだって病気のせいだし、仕方ないでしょ。むしろゆっくりしたほうがいい。お金だって、会社以外の稼ぎ方もある。だからもっと自分にお金かけたりして、自分を大切にしな」

この言葉は、いまでも何度でも言ってくれます。それに救われているのが現状です。色々変わりました。化粧品や洋服にお金をかけられるようになりました。それまでは贅沢品とか言われていて買えなかったので。それを褒められて。嬉しくて。また褒められるように頑張ろうとかになっています。

まあ仕事は相変わらずうまくいきません。発作とかも起きるし。欠勤早退当たり前って感じです。辞めることも視野に入れています。

10.まとめ

なんだか書いていたら長くなってしまいました。

私の半生で影響力があるものって、「言葉」なんですよね。太字で書いたものがトラウマでありアイデンティティであり救われたものである。ってかんじ。

たかだか言葉、されど言葉。そうやって言葉を大事にしてくれる人が増えたらいいな。

最後に、今の彼氏に最も救われたと思われる言葉を一つ。

「生きているだけで死にそうなほどの地雷がたくさんはるかにはあるね。地雷原で生まれ育ったみたいだ。でもよく生きてこれたね。偉いよ。だからこそ、俺と一緒に生きてほしい。」

そんな感じで、今のところとりあえずうまくやってます。生きています。生かされているが正しいかな。

みんなって、どうなんだろ。やっぱ誰かに生かされていたりするのかな。ポジティブ方面でそうならいい世界だなあと思う深夜4時でした。

以上、佐々木はるかでした。

最後まで読んでくれたあなたに、最大限の感謝を。

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