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文章鬼十則

はじめに

文章は誰でも書ける。
しかし、誰でも書けるからこそ、逆説的に、その書き方に対して意識的になることは少ない。
ましてや「文章を学ぼう!」などと思ったことがあるひとはよっぽど少ないだろう。

かくいうぼくも長いあいだ文章を手グセで書いていた。
大学時代にFilmarksで映画の感想を書くことから始めて、はてなブログを経て、noteへ。
ブログを書いていくなかで自分なりの「方法論」と呼べるようなやり方も生まれた。
だから、人より文章を書くことに慣れている自負があったし、その当時のブログは今読み返しても面白いものも、ある。(出来の悪さに消してしまいたくなるものもあるけれど。)

だけど、ここ数年社会人生活のなかで、文章あるいは企画書を書いていると沸々と自分の中に湧き起こる疑問があった。

もしかして自分って、企画書のストーリーをつくることが得意じゃない?
もしかして今まで自分がやってきたやり方では通用しない文章がある?

そんな悩みを抱えたときに向かうべきはやはり本だった。
作家、記者、コピーライター、学者、と文章に携わる仕事をされている方々の「文章術」に関する本を読み漁った。
そして、そこからいくつかの共通する“戒律”を抽出することができた。
その奮闘の粋をみなさんに紹介せんとするのが今回のブログだ。

ただし、本題に入るまえに一つだけ注意を。
何かに対して「意識的になる」ということは、無意識のときに享受していた快適さを手放すことでもある。
文章に対して意識的になることは恐ろしい。無意識に書けていたはずの文章が急に書けなくなってしまうこともある。
そして、僕自身もその病いのなかでいままさにリハビリ中である。
だから、これはぼくの闘病記であり、そしてみなさんへその“病い”を感染さんとする罰当たりな行為でもあるのだ。
ここから先を読む方は気をつけてほしい。
ここから先は修羅の道だ。しかし、修羅にしか行けぬ道もあるのだ。

***

1. 文章には型がある。

文章にはいくつかの型(タイプ)が存在する。その型は大きく分けて以下の3つ。
①主張型 ②ストーリー型 ③直観型
それぞれ簡単に説明する。

①主張型の文章の代表例は論文だ。
白黒つけなければならない論点・問題に対して自分の意見を述べる。そして(仮想の)読者はその意見を批判する。そこにはエビデンスと客観的な視線が求められる。
この肯定と否定の丁々発止による止揚を目指すのが主張型文章の特徴である。
一方、②ストーリー型はその名のとおり「物語」を指す。具体的な場所・時間のなかで登場人物が行動し、出来事が展開していく。その時間経過の流れのなかで継起する出来事の集合を「物語」と呼ぶ。
最後に、③直観型はエッセイや随筆が該当する。日々の体験のなかで感じとった自分の「直観」を、計画的な脱線を伴いながら語る。エッセイは体系化・全体性を拒絶しながらも普遍に接続するひとつの方法である。

主張型で扱うテーマはある程度の公共性が求められるが、ストーリー型や直観型で扱うテーマは極私的なもので構わない。むしろ極私的なものほどいい。それはマーティン・スコセッシが語りポン・ジュノが引用した言葉からも明らかだ。
「最も個人的なことは最もクリエイティブなこと」である。
しかし、残念ながら本稿「鬼十則」のなかで主に取り扱うのは①主張型について。
以下九則については基本的に主張型文章の原則だとご承知おきいただきたい。
①主張型以外について知りたい方は、吉岡友治『いい文章には型がある』の一読を推奨。


2. きみの文章に主張はあるか?主張とは、メッセージ。問いに対する答え。そして、常識に対する叛逆だ。

この第二則が主張型文章においてもっとも大切なこと。
主張型文章は必ず「問題と解決」Problem & Solution の構造を持つ。
対立や矛盾する現象を「問題」として定義し、自分なりの「解決策」を提示する。そして「あなたはどう思うか?」と読者に問う。
これが主張型文章である。
また、この原則はそれ自体「きみはなぜその文章を書くのか?」という問いに対応している。
文章がなんらかの疑問・論点に対して答えていないのなら、あるいはその文章のメッセージが常識に反することを伝えていないのなら、きみはその文章を書く必要があるのか?
きみ自身が焦がれるほど伝えたい世界の真実でないのなら、その文章をこの世界に生み出す必要はあるのか。
野口悠紀雄は『「超」文章法』のなかで、主張(メッセージ)の要件の1つとして、「盗まれたら怒り狂うか」を挙げている。
ぼくはここであくまで言い切りたい。
こうした問いに答えられるものだけが、「文章」として世に出されるべきなのだ。


3. 「常識に対する叛逆」にも、型がある

第二則で主張とは「常識に対する叛逆だ」と書いた。
叛逆というチャレンジングな言葉をあえて使ったが、その叛逆にもいくつかのパターンが存在する。たとえば下記の4つ。

① 2つが1つ、1つが2つ。
② 正邪・善悪の逆転
③ 従来とは異なる二分法
④ マトリクス

紙幅の関係でこれらすべてを詳述することは避けるが上記の例はすべて「二項対立の一般的なあり方を揺さぶり解体すること」のパターンでしかない。
どういうことか。
たとえば①なら「一般的にXはYとZの2つに分けられる」とする場合、「しかし、YとZには見過ごされがちなNという共通点があり、その本質は同一である」とするのが「主張(2つが1つ)」であり、「叛逆」である。
(「一般的にXは十把一絡げに語られがちだが、実際のところXには良い面もあれば、悪い面もある」というようなものは「1つが2つ」型の主張。)
二項(あるいはそれ以上の)対立を見つけ揺さぶることで、常識の堆積によって覆い隠された真実を露わにする。ここに「書く意味」は存在するのだ。
この第三則をより詳しく知りたい方は野口悠紀雄『「超」文章法』(p65~)を参照。


4. 論理とはなにか。それは冗長であるということ。

論理とはなにか。吉岡友治『いい文章には型がある』にはこれを説明する非常にわかりやすい一節があるので引用したい。

論理とは、簡単に言えば、命題の変形の規則である。命題とは「・・・ならば〜〜である」という判断を表す文(言明)だ。ある命題を出発点に置き、(前提とする)、それを、論理つまり変形規則を使って次々と書き換えていく。
その書き換えの作業を繰り返していくうちに、自分の目指す結論(やはり「・・・ならば〜〜である」という命題)に行き着く。そうすると証明が終わる。論理的であるとは、この書き換えが規則に従って間違いなく行われていることを意味し、書き換えの規則をまとめたものが「論理学」と呼ばれるのである。(p76)
論理とはいくつかの記号の組み合わせの規則にすぎない。その規則を利用して、最初の前提を言い換えていく。変形していく途中で新しい情報が入ってはいけない。それが保証されているときに「論理的である」と言われるのだ。つまり、最初に言ったことを、途中でも、最後でも繰り返しているだけなのである。(p78)


要するに論理とは当たり前の前提=自明な命題を言い換えて、自明な結論に辿りつくことを指している。これは「冗長」であることと同義である。
しかし聡い方はお気づきだろうが、これは第二則「主張は常識に対する叛逆」に反しているように感じる。ここに注意が必要だ。
この「自明さ」とは「論理的」に考えた場合の自明さである。
つまり、文章とは“「常識的」に考えたら自明でないが、「論理的」に考えたら自明なことを主張するもの”なのである。
命題の言い換えによって非常識な発見に導くのであって、論理の道程に発見(飛躍)があってはならないのだ。


5. 主張型文章のゴールは、文章を書くことではない。読者が納得することにある。

文章は書いて終わり、発信して終わり、ではない。読者の態度・行動変容を促してこそ価値がある。
それは主張型の文章であれば特に言えることだ。
「読者を説得する/納得させる」という目的に照らすと、下記2つの作法の重要性が明らかになる。


① 納得の鍵は論理にあり
第四則にも書いた通り、論理とは「冗長な言い換え」である。
つまり、主張型の文章はすでに自分にとっては自明となった結論を、手を変え品を変え懇切丁寧に読者に語りかけることで成立している。
文章は、文章を書く人間にとっては、無駄に思えるほど遠大な回り道だ。
だから、文章を書くことは面倒くさい。
しかし、読者は違う。
読者はそのテーマ、結論、主張に対して初心者である。読者の納得を目的とするならば、文章を書く人間は自分の通ってきた道、迷い転びながら歩んできた道筋それ自体を再び通り、示してあげる必要があるのだ。
その道案内を論理と呼び、その旅路を伴にすることによってはじめて読者は「納得」しうるのである。


② 結論ファースト。根拠でサポート。
前節において論理=回り道こそが納得感の重要な要素だと述べた。しかし、ここでひとつ問題がある。
読者はみな、忙しいのだ。
仕事があり、恋人との生活があり、スマホを開けばSNSには無限の情報がある。
そんな現代の生活・メディア環境のなかで、きみの文章を読むために割ける時間・アテンションはごくわずかにすぎない。
目的地もわからぬまま共に獣道を進んでくれるほど、あなたに首ったけな読者などほとんどいない。
だから、結論は先に述べねばならない。
そして述べた結論を根拠によって補強していく
のだ。

ところで、この根拠だが、そのなかも実は3つのパート「理由」「説明」「例示」によって成り立っている。

理由(Reason)とは「なぜなら〜」で始まり単文で終わるような、主張を支える直截的な根拠を指す。
説明(Warrant)とは、理由の言い換えである。たとえば理由に対し「それはつまり〜」と続くような、理由をより具体的なレイヤーで噛み砕いたものを説明と呼ぶ。
そして最後の例示(Evidence)は、その主張→理由→説明の連鎖が現実のデータ・事例と齟齬がないことを示すものである。

つまり、主張→理由→説明→例示は目的・手段連鎖でもあり抽象→具体レイヤーでの論理展開とも言える。
この理由、説明、例示の3点セットを「根拠」と呼び、結論を根拠によってサポートするのが、主張型文章の骨格になる。


6. 弦を張れ。そして響かせろ。

すでに聞き飽きたと思うが、論理とは言い換えのもつ冗長さである。
つまり、うまく論理が接続された文章とは、言い換えが有効に機能した文章であり、そこでは同義語・類義語が文章全体のなかで輻輳されているのである。
これを
「主題に関わる弦(Thematic Strings)」と呼ぶ。
感覚的には蜘蛛が糸を張るようなものだろうか。
それはある意味でストーリー型文章において「伏線を張る」ことにも近い。
そして、伏線は回収されねばならない。というよりむしろ、伏線は回収されてはじめて遡及的に伏線たり得るのだ。
チェーホフがかくも語ったように、「序幕で登場した銃は、発射されなければならない。」
発射されない銃は登場してはならないのだ。


7. 美しさは余計なものにこそ宿る。

主張型文章の骨格が「結論と根拠」にあるならば、さしずめ具体例、比喩、引用は化粧だろうか。
主張型文章にはなにより骨格のシャープさが求められる。化粧は二の次だ。
だが、二の次であるものにこそ「文化」が宿るように、やはり感嘆するような文章は比喩や引用が効果的に使われている。
論理的に緻密な地の文にあって、そうしたレトリックは輝きを放つ。

それは深さ1,000mの海底に届く一筋の光である。
それは嵐の目のなかで見上げた夜空に光る星である。
それは午睡にまどろむ犬がみた夢である。

主張型文章に化粧は必ずしも必要ではない。しかし、複雑な概念をシンプルな現象に仮託して語る具体例、比喩、引用は強力な武器となりうる。
もしきみが目の前の相手を完璧に仕留めたいと願うなら、今すぐその武器をとれ。


8. 接続詞をうまく使うこと。あるいは使わないこと。

接続詞とは標識である、とよく言われる。
接続詞は先行する文と後続する文との論理関係を明確にする機能があるからだ。
読者はその標識を見ることで、続く文章がどういう内容になるのか予想し、安心して読み進めることができる。
それはつまり、文章という茫漠たる旅路において迷子にならないための灯台であり、北極星だ。だから、これは主張型文章では特に重要となる。
しかし、翻ってストーリー型や直観型ではどうだろう。
実は物語やエッセイでは接続詞を多用することは推奨されない(ここに文章をいくつかの型にわけることの効用がある。それぞれの型によって推奨される文章作法は異なるのだ)。
それは、物語の目的が主張、あるいは読者の説得にないからである。
物語はその旅自体、プロセス自体を楽しむことであり、旅の目的地はひとつの「主張」に集約されない。
むしろ物語のなかで接続詞を多用することは無粋な印象を受けるだろう。
それはまるで自由な一人旅を望むバックパッカーを、無理やりパッケージツアーに巻き込もうとするようなものなのだから。
接続詞を使うときには、自分がいま書こうとしている文章がどの型にあたるのか。その自覚がなによりも必要だ。


9. 推敲は怠惰な自分自身との闘争 

再び言おう。文章を書くことは面倒くさい。そして、文章を書くうえで、最も面倒くさいのがこの「推敲」だ。
古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』では推敲についてこう語っている。

世間では推敲のことを、それこそ「推」を「敲」に改めるような、単語レベルでの練りなおし、書きなおしの作業だと思っている人が多い。もっと言えば、誤字脱字をチェックするのが推敲だと思い込んでいる人さえ、いるほどだ。
たしかにそれも推敲の一部ではあるだろう。しかし、本来の推敲とは、もっと大きな範囲に及ぶものだ。
自らの文章にハサミを入れ、切るべきところをざっくり切り落とす。文章の「あっち」と「こっち」を大胆に差し替える。足りないと判断すれば、数ページ分の長文をドカンと追加する。切る、貼る、足す。そしてようやく、「推」を「敲」に改める作業に入っていく。それがぼくの考える推敲だ。
この「切る、貼る、足す」の作業、なにかに似ていると思わないだろうか?
そう、映画の“編集”だ。(p229)

このように、推敲とは単なるてにをは、漢字間違いの修正ではない。
文章の「編集」である。
論理が明瞭になっていない箇所には言葉を足し、冗長になりすぎている部分はどれだけ気に入ったフレーズがあってもカットする。そうして手塩にかけて育ててやることでようやく、文章というものは花開く。
分かるだろうか。これは非常な労力を要する。
だから、三たび言わせてくれ。
文章を書くことは面倒くさい。
しかし、世の中のクリエイティブなことはすべて、面倒くささと背中合わせである。
かの宮崎駿監督も言っている。
「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」


10. 文章に型はない。

鬼十則もついに最後まできた。この第十則は第一則と呼応する。そして、それは矛盾するように聞こえるかもしれない。が、実際のところこれらは矛盾しない。なぜか。
「良い文章」を志向するとき、そこには書きたい文章の質、あるいは目的によって基本的な型というものがある。それは第一則に述べたとおりだ。
そして、その型を知り則ることで、主張の独自性を際立たせることができる。なぜなら「型破り」な文章は形式のレイヤーで読者に緊張を持たせることになり、主張のレイヤーにおける阻害要因となりうるからだ。
つまり、型というのは「良い文章」を書こうとするときのプロトコルであり、方法論である。
一方で、この結論にはまたひとつの帰結が存在する。
そう、「型」が方法論でしかないならば、別の方法論あるいは型にはまらないという方法論もまた存在するのである。
実際、世の中でいう「良い企画書」は(企画書と文章の違いはさておき)主張であり、物語であり、そしてエッセイでもある。
企画書は、直観された発見を、物語り、主張する。
実際の文章というのはこうしたハイブリッドでしかなく、第一則で述べた文章の型はひとつの補助線として、そこにとらわれすぎてはいけない。
結局のところ一番大切なのは型ではない。
まず書くこと。書き始めること。書き続けること。それしかない。

修羅の道はそこから始まる。



参考文献

参考文献一覧
野口悠紀雄『「超」文章法』
吉岡友治『いい文章には型がある』
吉岡友治『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』
古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』
木下是雄『理科系の作文技術』
石黒圭『文章は接続詞で決まる』
阿部広太郎『コピーライターじゃなくても知っておきたい心をつかむ超言葉術』
橋口幸生『言葉ダイエット』
スティーヴン・キング『書くことについて』


野口悠紀雄『「超」文章法』

吉岡友治『いい文章には型がある』

吉岡友治『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』

木下是雄『理科系の作文技術』

石黒圭『文章は接続詞で決まる』

阿部広太郎『コピーライターじゃなくても知っておきたい心をつかむ超言葉術』

橋口幸生『言葉ダイエット』

スティーヴン・キング『書くことについて』



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