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なぜ僕たちの優しさは食い違うのか

たとえば、あなたに恋人がいたとして、
それでも他のだれかをとてつもなく好きになってしまったとする。
恋人はあなたの不貞を知らず、交際の継続を信じて疑っていない。
そのとき、あなたは一体どんな選択をする?
「好きなひとができたので別れたい」と伝えるのだろうか。
あるいは、もはや一番好きな相手ではなくなってしまったにも関わらずいまの恋人との交際を続けるのだろうか。
一体どちらがほんとうの優しさで、どちらが偽りの優しさなのだろう。
というかそもそも、「ほんとうの優しさ」などというものはあるのだろうか?

優しさには2種類ある、と思う。
ひとつは、「相手に対して真摯であろうとすること」。
そしてもうひとつは、「相手の望んでいることをすること」。
先ほどの例で言えば、「好きなひとができたので別れたい」と伝えるのは前者で、
交際を継続させるのは後者だと思う。

「優しさ」(あるいは、コミュニケーションのすべて)においては、行為主体と行為の受け手が存在する。

一般的に、行為の受け手Bが「Aさんは優しい」というとき、
このときBは「Aさんは穏やかで、怒らず、気遣いができる」といった趣旨の主張であることが多い。
要するに、行為の受け手から考える優しさとは、往々にして「自分にとって都合がいいこと」すなわち、前述2パターン目の「優しさ」(相手の望んでいることをすること)を指す。
一方で、行為主体Aが「Bに対する優しさ」について語るとき、
Aさんは冒頭の例のような2種類の「優しさ」の選択を迫られる。

現実のぼくたちは、このAとBの役割を代わる代わる演じることになる。
ときにはAとして「ほんとうの優しさ」に迷い、ときにはBとして相手の「優しさ」を求める。
ぼくたちの優しさが食い違うのは、
自身が行為主体であるときは2種類の優しさを想定するにもかかわらず、
自身が行為の受け手となるときには、1種類の優しさしか想定していないこと、
が原因ではないだろうか。

2種類の優しさの、どちらが「ほんとうの優しさ」ということはない。
ひとりの人のなかでも2つの「優しさ」は入れかわり立ちかわり現れ、
そして、ぼくたちは常に行為の主体と受け手を入れ替えながら、その役割に求められる「優しさ」を選択する。
優しさとは、立場と解釈する主体によって異なる相対的なものごとだ。
そして、常に遅延された過去の出来事としてしか理解することができないのだ。


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