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【第2位】『24時間テレビ』は、障害者に何をもたらしたのか。

2019年に反響が大きかった有料記事を、今回のみ無料公開してしまおうという年末特別企画。第2位は『24時間テレビ』について考察したこちらの記事。公開時にこの記事をご購入くださったみなさん、どうかご容赦ください。

今年も、この日がやってきた。

甲子園と並ぶ日本における夏の風物詩となった感のある『24時間テレビ』。今年はどんな“感動”が待ち受けているのだろうか。

“感動”と、“ ”でくくったのには、もちろん理由がある。毎年のように障害のある人が何らかのチャレンジをして、その姿が視聴者の感動を呼ぶ。そうした『24時間テレビ』の演出に対して、数年前から「あざとい」という批判が高まり、さらには「感動ポルノだ」と言われるまでになったのだ。

「乙武さんは『24時間テレビ』に批判的だ」とよく言われるが、一概にそうとも言い切れない。功罪、両面があると思っている。今日は、その功罪についての私見を述べていきたいと思っている。

まずは、「功」から。

なんだかんだと批判も浴びるこの番組だが、本質はチャリティ番組である。そして実際、多額の寄付金を集めることに成功している。

上記リンクに番組開始から昨年までの寄付金総額が掲載されているが、昨年の放送で、9億円近い寄付金を集めている。2011年は東日本大震災が起こった年ということもあり、過去最高の20億円近い寄付が集まっている。

大事なことなので、もう一度言う。

たった一年間で、言ってしまえばほぼ2日間で、20億円近い寄付金を集めているのだ。偽善だなんだと言われようが、実際にこれだけの寄付を集めたという事実はもっと評価されてしかるべきだ。ちなみに、過去41年間における寄付金総額は、じつに「381億4,772万3,179円」にも上る。

これらの寄付金は災害復興に役立てられていたり、車椅子でも乗り込める福祉車両を全国の福祉施設などに贈呈したりしている。私も講演会などで全国各地へ赴くが、高齢者の方々の足として活躍する“24時間テレビ号”を目にしたことが何度もある。

車椅子ユーザーにとって、移動手段の欠如は、最も社会に対する障壁となりやすい。『24時間テレビ』によって、そうした“足”が全国に届けられることは、どれだけ助けになってきただろうか。

ならば、この番組は非の打ち所のない「いいところ尽くし」なのだろうか。以降は、「罪」の面について語っていきたい。

ここで、ちょこっとCMです。

2019年、私が最も力を入れて取り組んだ義足プロジェクトが本になりました。その名も『四肢奮迅』(講談社)。

最新テクノロジーを搭載したロボット義足で、仲間たちと歩くことを目指すドキュメンタリー。Amazonレビューでも、かなり好評いただいています。ぜひとも正月休みにでも読んでやってください!


この番組が「感動ポルノだ」と批判されていることは冒頭で書いた。ここで「感動ポルノ」とはいったいどういう意味なのか、おさらいしておきたい。

この言葉が初めて用いられたのは、2012年。自身も障害者である人権活動家の故ステラ・ヤング氏が、オーストラリア放送協会のウェブマガジン『Ramp Up』で初めてこの言葉を使っている。彼女は2014年に登壇した『TEDxSydney』でも、「私はみなさんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく」と題したスピーチを行なっている。

ヤング氏は、本人が意図せずとも、多くの障害者は「感動をもらった、励まされた」と言われる場面が多く、メディアで取り上げられる際にも「障害に負けず頑張る」という側面ばかりがクローズアップされがちだと主張した。

また、彼女はそうした場面で紹介されるケースの多くは身体障害者であり、精神障害者や発達障害者が取り上げられることはほとんどないということも併せて指摘している。

日本に初めてこの議論を持ち込んだのは、NHK Eテレ『バリバラ』という番組だった。2016年8月28日、裏ではまさに『24時間テレビ』が放送されているなか、「検証!『障害者×感動』の方程式」と題して放送を行い、『24時間テレビ』の過剰な演出を、障害当事者の声を織り交ぜながら痛烈に批判してみせたのだ。

回りくどくなったが、『24時間テレビ』の「罪」について言うならば、こうした「感動ポルノ」を垂れ流してきたという点に尽きる。

もしもメディアで障害者が扱われる機会が他にも多くあふれていて、この『24時間テレビ』がそのひとつに過ぎないという状況であれば、私たちも「たしかに障害者にはそういう側面もあるよね」という受け止め方ができるのかもしれない。

だが、実際に日本における状況はどうだろう。『24時間テレビ』以外に障害者がメディアに登場する機会といえば、“お涙頂戴”のドラマかドキュメンタリー。どちらも『24時間テレビ』における感動ポルノを薄めるような役割は果たしておらず、むしろ強化するような存在だ。

ちなみに、件の『バリバラ』で、健常者と障害者それぞれ100人に「障害者の感動的な番組をどう思うか?」と聞いたところ、「好き」と答えたのは健常者が45人に対し、障害者は10人。健常者の好きの理由は「勇気がもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」といったものだったが、障害者が「好き」と答えた理由は、「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」だったという。

さて、ここで読者のみなさんには、ある疑問が浮かぶ頃かもしれない。

「いったい、“感動ポルノ”って誰に迷惑かけてるの?」
「“感動ポルノ”が障害者にもたらす負の側面ってあるの?」

みなさんは、「日本人」や「女性」や「眼鏡をかけている」といったみずからの属性によって中身を判断され、窮屈な思いをしたことはないだろうか?

「日本人なんだから、きっと勤勉なはずだ」
「女性の幸せは結婚して、子どもを持つことでしょう」
「メガネなんかかけて、なんだかマジメそう」

うるせえよ! ほっとけよ! 一緒くたに考えるなよ!

そんな言葉が浮かんでこないだろうか。

そう、障害者だって同じなのだ。「マジメで健気に頑張ってる人」というレッテルを貼られた人生を送っていくことは、とんでもなく窮屈で、しんどいのだ。

私はそんなレッテルを剥がしたくて、いまから21年前に『五体不満足』という本を書いたのだが、読んでくださった方のほとんどの感想が「感動しました」だった(まさかその18年後、まったく予期せぬ形でそのレッテルを剥がすことに成功するとは思ってもみなかったが……)。

さて、下記の記事は、“感動ポルノ”なるものは障害者に窮屈なレッテル貼りをすることになるに止まらず、障害者が健常者によって「消費される」存在となり、さらには相模原障害者殺傷事件を起こした植松聖容疑者のような優生思想につながりかねないと警鐘を鳴らす。 

“感動ポルノ”が優生思想につながる——。それは、さすがに穿った見方ではないか。そう思う方は、ぜひこの記事で紹介されている“アシュリー療法”について読んでから判断いただきたい。

もちろん、日本テレビには『24時間テレビ』を優生思想につなげようなどという意思があるはずもないので、そうした文脈での批判は行きすぎだろう。しかし、彼らがこれまで“感動ポルノ”的な過剰演出を行なっていたのは無自覚だったのか、それともより多くの寄付金を集めるため、もしくはより高い視聴率を獲得するためにも、意図的に行なっていたのかは、その真意を聞いてみたいところではある。

さあ、そろそろタイトルに戻りたい。

『24時間テレビ』は、障害者に何をもたらしたのか。


端的に言えば、彼らは障害者に対して福祉車両などの物理的支援をもたらし、そして「健気に頑張る弱者たち」という薄っぺらいイメージをもたらしたのだと私は考えている。

なお、ヤング氏も指摘しているように、この記事における「障害者」とは主に身体障害者のことを指しており、精神障害や発達障害はいまだ取り上げられる機会さえほとんどないという現状については、再度、記しておきたいと思う。

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