「“親ガチャ”に外れた」と嘆くみなさんへ。
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先日、こんな記事が出回っていた。
「ガチャ」は、私と同世代の方々にとっては非常になつかしいものかもしれない。数百円のコインを投入して、景品の入ったカプセルを買う。しかし、カプセルの中身を選択することはできないので、実際に取り出してみるまでは中身が何かわからない。「ガチャガチャ」とも呼ばれていた。最近では、オンラインゲーム上でやはり中身がわからないままアイテム課金することを「ガチャ」と呼ぶため、若い世代にも広くこの言葉は浸透している。
そしてこの記事では、若者たちが親を「ガチャ」に例えていると指摘する。たしかに私たちは生まれてくるときに親を選ぶことができない。ガチャならば、まだ「買うか買わないか」を選択する余地が残されているが、親については「持つか持たないか」の選択などほぼ許されず、生育環境を大きく左右する存在である以上、ガチャよりも過酷な“運命ゲーム”となってしまっている。
詳しくは記事を読んでほしいが、“親ガチャ”とは、ただ愛情深く育ててくれる親か、虐待する親か、はたまたネグレクトする親かといった違いだけでなく、そもそも家庭の経済状況によって子どもに与えられる人的資本や進路における選択肢には大きな違いがあり、たとえば貧困家庭に生まれた子どもは生まれた瞬間からかなり不利なスタートを余儀なくされている、といったことなども指している。
このこと自体には何も目新しい事実などなく、早稲田大学・松岡亮二准教授など、様々な識者がデータを基に説得力をもって論じてきたことだ。それが今回は“親ガチャ”という、いかにもキャッチーな言葉で論じられたために、多くの人々に読まれる記事となった、というわけだ。
私は、ありがたいことに“親ガチャ”に恵まれた。愛情や教育方針といった、いわゆる属人的な側面はもちろんだが、経済的にも(大富豪の家に生まれたわけではないが)、教育にはしっかりお金をかけてもらえる家庭に生まれた幸運は否定しがたい。これについては両親にも、そしてそんな両親のもとに生まれてきた“運”にも感謝しなくてはならないだろう。
一方、私が「大外れ」を引いたガチャもある。それは肉体だ。先天性四肢欠損という障害とともに生まれてきた私は、“肉体ガチャ”なるものがあるとするなら、やはり大外れを引いたと言わざるを得ないだろう。「でも、乙武さんは字を書いたり、ボールを投げたり、いろんなことができるじゃないですか」と気休めを言ってくれる人もいるかもしれないが、風呂にもトイレにも一人で行けない身体に生まれた状態を、「大外れ」と言わずして何と言えばいいのだろうか。
だが、今度はこう指摘する人々が出てくる。
「ある人は『“親ガチャ”に外れた』と言い、ある人は『“肉体ガチャ”に外れた』と言う。でも、自分で選べない初期設定など数多くあり、そのすべてで大当たりなどという人はまずいない。みんな大なり小なり、何かしらのガチャで外れを引いてるのだから、あまりくよくよせずに前向きに生きていくべきだ」
一見すると、正論のようにも思えるし、ポジティブな発言のようにも感じられる。でも、と私は思うのだ。
こうした発言をする人に、もちろん悪気などない。むしろ、「ガチャに外れた」と嘆く人を励まそうとする善意の人々だ。だが、こうも思ってしまう。こうした発言をする人々の多くは、きっと「何のガチャにも外れることなく生まれてきた人なのではないか」と。
もしも何らかのガチャに外れ、しかも、それが人生を送っていく上で大きな制約となるようなガチャだったとしたら、そう軽々しく、「みんな大なり小なり、何かしらのガチャで外れを引いてるのだから前向きに」とは言えないと思うのだ。
もしも初期設定で大きなハンデを背負わされ、苦境から抜け出せずにいる人がいたとして、もしも現在は人並みの暮らしを送っていても、あまりに極端な外れガチャのせいで尋常ならざる努力を強いられた人がいて、そう簡単に「くよくよせず前向きに」などと言えるだろうか。少なくとも、私は言えない。
「気にするな」とか「頑張ってね」とか、精神論で物事を解決しようとすることには、つねに危うさがつきまとう。それは問題を「個人が解決すべきこと」に帰結させてしまうからだ。これを法政大学・鈴木宗徳教授は「リスクの個人化」だと指摘している。本来、私たちが目指さなければならないのは「リスクの社会化」であるはずだ。
言い換えよう。
私たちの人生は、決して平等とは言えない現実がある。特に生まれついた境遇による有利不利の差は著しく、ちょっとやそっとのことでは挽回しがたいハンデがある。この格差を、あくまで「個人の努力やコスト」で解決を図ろうとするのか、それとも「社会の努力やコスト」で解決を図ろうとするのか。「気にするな」とか「頑張ってね」といった言葉がけは、もちろん本人の意図するところではないにせよ、前者の世界観に寄与することとなる。
言うまでもないが、私は後者の社会を目指している。リスクの社会化。一人ひとりが負っているリスクを、できるだけ個人ではなく、社会が背負っていく仕組みだ。ここで言うリスクとは、ひとまず「ガチャに外れること」だとしておこう。生まれついた初期設定は、人それぞれ違う。その違いが、埋めがたいハンデとなってしまう部分に関しては、「気にするな」「頑張って」と個人に解決を求めるのではなく、きちんと社会でコストをかけて解決していくべきだと考えている。
あまりにキレイゴトすぎるだろうか。私はそうは思わない。
経済的に厳しくても学力を身につけられるように奨学金というものがあり、体が不自由でも街中で動き回れるようにバリアフリーという考えが広まってきている。他にも、様々な「初期設定の違い」をなるべくフラットにしていこうと、多くの政策が考えられたり、NPOが活動していたりする。
ようやくタイトルに戻ろう。
「“親ガチャ”に外れた」と嘆くみなさんへ。私は、「気にするな」とは言わないし、必要以上の頑張りも求めない。ましてや「嘆くな」などと言うつもりもない。存分に嘆いて、理不尽さを噛み締めて、そうして余裕があったら声を上げてほしい。「ガチャに外れても、豊かな人生を送れるようにしてほしい」と。
私は、誰がどんなガチャを引いても豊かに生きられる社会にしていきたい。「いろいろ違いはあるけれど、どのガチャを引いても魅力的だよね」という社会にしていきたい。それには、とにかく世の中の選択肢を増やすことだ。「これしか許されない」とメニューが限られた社会では、そのメニューに適した初期設定の人だけがオイシイ思いをし、そうでない人は割りを食ってしまう。つまり、“外れガチャ”を引く人が出てきてしまう。
だからこそ、あらゆるメニューを豊富に用意して、どんな初期設定の人でも「選べる」社会にしていきたいのだ。
#選択肢を増やそう
いつも言っていることだが、やはりこれに尽きると思っている。
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