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生誕10000日記念エッセイ

 2020年6月13日、高校、大学を通しての友人とインスタライブで公開トークをしました。テーマは「生まれてから10000日目」について。その場で僕は、10000日目の記念日には、長めの文章をFacebookとかに投稿したいな、という旨の発言をしました。
 今日は僕が生まれてから10000日目です。ということで、(とても)長めの文章を投稿します。自分語りをしているとどうしても独りよがりになってしまうのが常ですが、できるだけ読みやすくしたいとは思っています。お暇なときにぜひ。

吃音

 「きりんって言ってみて」
 高校の部活帰りの道、部の同期から楽しそうによく頼まれました。その友人は、僕が”どもって”「きりん」と言うつもりが「きききりん(≒樹木希林)」と言ってしまうのを期待していたのです。たいていの場合、僕のどもりはそこまで酷くはならず、例えどもっても「ききりん」で済んでいました。不思議なことに、改めて「○○って言って」と頼まれると、どもることは少なく、麒麟の川島のように、あえて流暢にダンディに「きりんです」と答えていた記憶すらあります。
 タイトルの吃音(きつおん)とは、話し始めの言葉が出にくい症状や障害を指します。「きりん」という言葉を例にとると、「きききりん」「きっっっきりん」「きーーりん」みたいに、最初の「き」の字が発しにくくなりまして、これをどもる(吃る)と言ったりします。重松清とか、田中角栄、アナウンサーの小倉智昭も吃音があるそうです。症状にも個性があるようですが、話していて違和感を感じた経験のある人も多いと思います。
 僕は物心ついた時から吃音があり、幼稚園の頃から、「ひでちゃんってなんで最初の言葉何回も言うのー?」と問いかけられてきました。そんなこんなで吃音と付き合いながら、10000日間も生きてきたことになります。27年以上ですから、中日の山本昌が入団して引退するくらいの長い時間、吃音と付き合ってきました。もちろん苦労した面もありますが、冒頭のような楽しい(?)思い出もあり、なんだか憎めないやつ、という感じもします。
 先日、不意に「生まれ変わったら吃音のない人生がよいか」という問いが頭に浮かびました。もちろん、ない方がいい。でも、なんか寂しい気もする。案外どっちつかずの気持ちになりました。死後、転生の儀式みたいなのがあって、生前の能力の取捨選択が僕に任されているとしたら、かなり悩むと思います。おそらく、「こんまり(@konmari_jp / @MarieKondo)」の整理術のように、「ありがとな」と伝えて整理をつけてからでないと、ゴミ袋に突っ込むのは忍びなく感じるはずです。
 後述するように僕は今学生なので、自分の意見を口で表明しなければならない場面が増えています。これまでの人生は、話の途中でどもっても話し相手がくみ取ってくれていたおかげで、何とかコミュニケーションが取れている”風”に生きてきたわけです。そのおかげもあり、一から十まで、主語から述語まで一人で語る機会がこれまで少なかったように思います。意見表明スキルが低いことを今になって突き付けられるとは思っていませんでした。
 吃音者として守られてきたがゆえに話す力が衰えるなんて皮肉な話ですが、亡くなった樹木希林さんのあの存在感に恥じないよう、克服していけたらいいなと思っています。


コロナ禍

 僕は今大学院生です。新卒入社した会社を退職し、通信大学への編入を経て、2020年4月から大学院で臨床心理学を専攻しています。ちょうど大学院入学の時期からコロナ禍が始まり、授業はすべてzoomでの実施となりました。せっかく通信大学を卒業して通学の大学院に入学したのにもかかわらず、再び通信大学生のような日常が訪れたわけです。最初の半年間は院の同期にも直接会えず、だれ一人の体の後ろ半分すら見ることもなく、背の高さも分からない状態でコミュニケーションを取っていました。
 コロナ禍はずっと部屋から出ず、運動不足な日々でした。ときに鬱々とした気分にもなりましたが、結構気持ちは楽だった記憶があります。あくまで画面を介した場であり、ホストがzoomの部屋を閉じれば瞬時に我に返るコミュニケーションは、逃げ場があって過ごしやすかったのだと思います。しかし、当時はそれに気づいていませんでした。
 「早く直接会いたいね」というセリフは、みなさん揃ってこの1年間、何度も聴き、口にした言葉だと思います。僕も「そうだねー」なんて他愛なく会話をしていたのですが、やはりどこか違和感も感じていたようです。前述のように心のどこかでは「このままも結構悪くないんだけどな…」という意見も持っていたみたいでした。
 それに気づかせてくれたのが、2020年大晦日、紅白歌合戦の星野源のパフォーマンスでした。

後半に「僕らずっと独りだと 諦め進もう」という歌詞があって、たまたまガキ使のCMの合間にNHKを覗いていた僕は心をちょんちょん、とつっつかれた気がました。ちょっと淡白で突き放したような印象のある歌詞ですが、「直接会うべきだ」「”直接会いたい”と思うべきだ」という社会の雰囲気に反発するように現れ、しかし表面化されなかった気持ちを見つけてもらった感じがして、不思議と安心した記憶があります。僕の好きな水溜りボンドのカンタもツイートで絶賛していました。


 いや、もちろん直接会った方が楽しいですよ。ずっと家の中にいると気が滅入るし、コロナ禍がずっと続けばいい、なんてことを思っているわけではないです。そんな気もした、というだけ話です。コロナが明けたら皆さんたくさん飲みましょうね。


「臨床心理学」

 「大橋ってDaigoになるんでしょ?」というのは、僕が心理士になりたいことを聞いた友人から言われた言葉です(メンタリストの方の”Daigo”です。ウィッシュの”DAIGO”じゃないです)。「臨床心理学」という得体の知れないものを紹介すると、このほかにも多種多様な意見が返ってきて面白いです。冒頭のようにメンタリストになることを期待してくれる人もいれば、「カウンセラーみたいな?」「精神科医みたいな?」「スピリチュアル?」というリアクションもあります。「臨床心理士」というワードも覚えづらいみたいで「心療心理士? だっけ?」という質問もよく受けます。今挙げたものは総じて間違いとも言えないので、その最大公約数が臨床心理学、および臨床心理士だと思ってもらえればいいです(多分)。
 色んな例を挙げましたが、総じて言えることは、その会話のテーブルの雰囲気にちょっと緊張が走る(気がする)、ということです。そりゃ、普段のカジュアルな会話の中でうつ病とか自殺のことなんてみんな考えたくないだろうし、偏見とかもあって個人の意見の相違がデリケートな領域でもありますから、そもそも話題としてハードルが高いものだと思います。僕自身もそう感じているので、「大橋最近なにしてんの?」と言われて「大学院で臨床心理学やっている」ということを返すときは、それなりに言いにくいです。
 そうしたことの根底には、臨床心理学の「得体の知れなさ」「わからなさ」がありそうです。
 正直、「臨床心理学ってなに?」の解答が僕にはまだ分かりません。今NHKで放送中の「ここは今から倫理です。」というドラマで、倫理の授業後黒板に残っていた文字は「エリクソンの発達段階説」に関するものでした。

これは臨床心理学の学習中に必ず出くわすトピックなのですが、ドラマでは”倫理”の一単元として扱われていました。こうした倫理や哲学といった面がある一方で、統計を使って論文を書いたり、脳の神経伝達物質や、精神科の薬の効き目を把握したりなど、科学的な素養も大事みたいです。もちろん、カウンセラー的な、コミュニケーションの練習、実践もします。よく考えれば、人や動物が関わることであれば必ず「心理」の範囲に入るはずです。だから「これは心理学だ!」とこじつければ、どんな分野でも心理学の看板を背負える気がします。
 つまり、わかりません。得体の知れないものに対峙する恐怖を感じているのは、その世界に身を置いている僕も同じです。わからないものを相手にするのは怖いです。
 先日、大学院の同期が「わからなさに耐える」という言葉を使っていました。その言葉は今となってはだいぶピンとくるもので、「そうか、臨床心理学が何か、相手が考えていることが何か、わからないこの状況は”耐える”べきものなんだ」と腑に落ちました。月並みですが、調べればすぐに答えっぽいものが見つかる今、「わからない」ことで感じるストレスはより大きいのかもしれません。
 友人から教えてもらった「羊文学」というバンドに「あいまいでいいよ」という曲があります。

サビで「あいまいでいいよ 本当のことはあとまわし」と優しい笑顔で爽やかに歌ってくれるのですが、最近この歌詞がじわじわと効いてきています。この曲を聴くと、わからないことがあっても「わからなくていいんだ」と安心できるので、オススメです。


カッコいいこと

 昔から年賀状が好きでした。中、高、大、とかなりの枚数(大学のときとか100枚くらい)送っていた気がするし、”かもめ~る”の当選番号を確認するのは幼い僕の仕事で、年始の朝は、家のポストを意気揚々と確認しに行っていた記憶があります。
 しかし、今年の年賀状のやり取りは2枚だけでした。決して友達が減ったとかそういうわけではない(はず)のですが、やっぱりSNSがあることが大きいのではと思います。
 特にFacebookでは、何年前でも一度連絡先を交換すれば、整理しない限り永遠に近況が報告されます。中学生の頃に設定した小恥ずかしいメールアドレスを多くの人が使い続けているように、Facebookのつながりも細く長く続いている感じがします。
 全然会ってない、友達って言っていいのかすら怪しい人の近況が、さも自分に向けられているかのように届けられるのは、不思議な距離感です。Facebookがタイミングを配慮してくれるわけでもないので、たまに腹が立ったり、人知れず刺激を受けたり、反応に忙しいですね。起業しました! とか、作品作りました! とかといった投稿はエネルギッシュで、やはり印象に残ります。そうした多彩な情報との距離を適切にとることは我々生身の人間の仕事なわけです。
 そんなFacebookでつながりを持つたくさんの人の中で、「意識高い系」と揶揄されがちな人も残念ながら存在します。所信表明をつらつらと書いたり、聞きなれないカタカナ語を多用したり。それに何とも言えないうすら寒さを感じた経験のある人も正直多いと思います。普段の僕はそういうのを「まあまあその人にも考えがあるんだし」とついつい距離を置いて考えてしまうのですが、そんな僕にも嫌悪感を抱いた経験はあります。
 ですが、最近、「そうやって揶揄されるような”カッコ悪いこと”を堂々とできるのって、実はカッコいいのでは?」という考えが浮かんできています。この投稿の冒頭で語ったインスタライブの件でもそうです。その時の相方はしゃべりの練習のために頻繁にインスタライブをしている人でしたが、そうした練習を経て、彼のしゃべりは素人目に見ても素晴らしいものになりました(もちろん僕から見える部分に限っての話です)。加えて、インスタライブのコメント欄で新たな人間関係ができたり、別の友人が感化されてインスタライブを始めたりと、よい副産物すら生まれていました。
 練習の過程ということは、当然未熟な状態なわけですから、それを見せびらかすのは必然的に”恥ずかしいこと”、”カッコ悪いこと”になりやすいです。しかし、たとえそれを揶揄する人がいたとしても、それは最短距離で目標に近づける手段なのかもしれません。「意識高い系投稿」に嫌悪感を感じることも、似た構造に思えるのです。
 未熟な自分を晒す、というカッコ悪いことをすることでしかカッコよくなれないとしたら、カッコよくありたい人には不都合な真実だと思います。でも、朝井リョウの小説「何者」みたいな話の顛末をどうしても想像してしまいます。

不細工がキレイになるには見たくもない鏡を見ないといけないようです。未熟な自分をあえて晒して反応をもらうことは、その鏡を見ることにあたるのかも知れません。僕のようなええカッコしいな人間にはとても抵抗感が強いことです。
 書きながら、この”カッコ悪い”投稿自体をつらつらと一生懸命正当化している自分にハッとしました。こんな不細工な文章への反応で罵詈雑言をいただけたら、いつかカッコいい文章が書けるようになるかもしれません。そうだといいなあ。


怒り

 高校野球部時代、細身の友人が「太りたい」と言っていました。体重があった方が打球が飛ぶし、野球選手らしい体つきになると思うので、とても理解できる欲求だと思います。野球に限らずそういう人は一定数いるようで(特に男性)、そうした意見はそれ以降もちょくちょく聞きます。
 一方僕はどちらかというと太りやすい体質で、「太りたい」という思いに駆られたことはほぼありません。先日大学院の同期に「初めてあなたの顔を見たとき、『ちょっと太った?』って思った」とカミングアウトされました。初対面では論理的にありえない感想なのですが、それほど僕の顔がぷっくりしていたのでしょう。「痩せたい」と今切実に思っています。こんな感じで、太りたい人もいれば痩せたい人もいて、人によって、真逆なものを欲しがることもあるようです。
 転じて、「僕今アンガーマネジメントやってるんで!」と、大学の後輩がうれしそうに話してくれたことがあります。彼はとても温厚なイメージがあったので、「あなたでも怒りをマネージする必要があるんだなぁ」と感じ、その言葉は印象に残りました。僕は、かなり長いこと(特に中学以降?)「大橋って怒らないよね」と言われてきました。実際、怒りをマネージした記憶はかなり薄れていますし、怒る機会は少なめです。むしろ、自分の意志が自分でわかりづらいことに困っているくらいで、自分が怒るポイントはなんなんだろう? と最近気になっています。先ほどの「太りたい」、「痩せたい」の議論の鏡うつしのように、後輩の彼は怒りたくなくて、僕は怒りたいわけです。
 ところで、懇意にしている友人の一人が、最近「意志を持つこと」を大事にしているようで、それをnoteにもまとめていました。

僕としても、意志の有無を重視することはとてもよくわかる話です。確かに他者から意志を感じると、その人に敬意を(ときには畏怖をも)覚えますが、同時に、自分より「意志力」が弱い人を見て、傲慢にもイライラした記憶もあります。人間の脳には相手の意志を感じ取るセンサーがあるのでは、なんて思えるほど、僕は他者の「意志力」の高低を気にしているのかもしれません。
 近ごろ友人たちを見ていると、ちゃんと怒れる人は、前述の”意志力”が高いように思えます。したがって、怒りは意志の裏返しであって、貴重な原動力なのでは、と、意志とか欲求が弱い僕はどうしても思ってしまうのです。怒りを持つ人が羨ましいとすら思うこともあります。関係があるのかはわかりませんが、「検察側の罪人」という映画の、二宮和也が美しく流暢にブチ切れるシーンを観るのがたまらなく好きで、それを観るために映画館に2回も通いました。


 先日「怒りは人生に必要ない」という論調の自己啓発系ツイートを見ました。そのリプ欄は賛同の声であふれていたので、多くの人は漏れだす怒りに対処したい、と考えているんだと思います。とすると僕は少数派ですから、僕が怒りを手に入れたらどうなってしまうのか、ということのヒントとなる手がかりが少なく、どうなるかわかりません。そう考えると少し怖いですが、せっかくなら二宮くんのようにキレイにキレられる人でありたいと思っています。 

結び

 通信大学で心理学を勉強しなおしていたころ、夏の通学の授業で、「ライフライン」を書いてみましょうという課題がありました。ここで言うライフラインは、物資の供給網のことでもクイズミリオネアのアレでもありません。ライフラインとは、横軸に時間を配し、人生の浮き沈みを一本の線でグラフのように表現したものを指します。

通信大学ですから、”学びなおし”の色が強く、教室には20代~60代くらいまで様々な年齢層の人がいて、それぞれがそれぞれの人生を振り返っている不思議な時間でした。
 僕は本来、自分語りをするとどんどん自己否定に入ってしまう特殊能力を持っているのですが、ライフラインを書いてみた結果、「今が一番高い位置」という結果になりました。この投稿している”今”は、大学院に入学して、本格的に臨床心理学をお勉強しているわけで、さらに高い位置にあります。つまり最高点にいます。ネガティブな僕は、当時この結果にたいそう驚きまして、だいぶ勇気づけられました。
 これからまた10000日経ったら僕は50代半ばになっていて、その時のライフラインはどうなっているのか、ワクワクと怖れが4:6といったところです。最高点を更新していることを切に願っています。とはいえ、現状目の前のことで精一杯気味なのも事実。
 ですが、目の前のことをやるのも悪くないな、と思えることが増えてきました。というのも、今になって、これまでの人間関係や経験、スキルが線になってつながったな、と思うことが多くなってきた気がするのです。例えば前職時代に培った資料作成スキルは今方々で活きているし、学生時代の動画編集を活かして友人の結婚式の動画を作ったり、種々のアルバイトでのコミュニケーションの経験が臨床心理学に役だったりなど、何がどうつながるか予想もつきません。
 数年前、友人が「持っているカードで勝負するしかない」という旨のツイートをしていて、力強い発信だなと思い印象に残っていました。どうやら、相性のいいカードの組み合わせなら、コンボ技で1+1が3になることもあるみたいです。目の前のことでいっぱいいっぱいでも、そんなつながりを糧にしながら、残りの人生もどうにか泳いでいけたらと思っています。

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 以上です。この文章が全部で7000字代なかば。一文字一日に換算しても10000日には全く及びません。長い時間生きたんだなと改めて思います。

 友人諸氏におかれましては、この文章を元ネタに僕をいじめるのを厳に、厳に、厳に禁じます。大事なことなので強調しました。
 一方で、Facebookで細くつながっている「全然会ってない、友達って言っていいのかすら怪しい人」がこっそり一人の時に読んでくれたらうれしいな、なんて思っています。

 駄文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

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