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病気になるとはどのようなことか〜<医>の概念工学〜(4):患者の言葉は果たして伝わるのか?   ーNHKあさイチに出演して考えたことー

8月31日,NHK総合テレビ「あさイチ」の特集「医師が患者になって初めてわかった 実際に役立つ“患者術”」に録画出演させていただきました。短時間でしたが,患者さんや知り合いからの反響が大きく大変嬉しく思いました。その際,多くの方々から,先生が患者になって感じたことはその後どうなって行ったのかと聞かれました。今回の経験を通じて,改めて考えたことを書きたいと思います。


患者の言葉は伝わらない

取材ではいろいろなことを話しましたが,番組の中では,私が8年前椎骨動脈解離からの小脳梗塞を患ったときに感じた「症状の表現しにくさ」を取り上げていただきました。当時,後頭部からお腹にかけてなんとも表現しにくい「感じ」(いわゆる現象的意識やクオリアに相当するのかもしれません)が出現しました。(詳しい経緯は別ブログに書きました)。

番組でも述べましたが,あのときの「感じ」を言葉に表わせば,後頭部付近に出現したなんとも「もっさり」した感じだったのですが,そう言葉にした瞬間に,いま体の中にあるこの「感じ」と,「もっさり」との間に大きなギャップがあることに気づいたのです。「もっさり」ともやや違う,「何かが乗っかってくるような」「でも重いものではない」「体の奥を突き刺すような」「浸透してくるような」「ジワジワ真綿で締められるような」。。

さまざまな言葉を捻出するのですが,どれひとつとしてこの「感じ」にしっくり来る言葉が見つからないのです。それどころか,言葉を重ねれば重ねるほどなにか「嘘くさい」感じがただよい,違和感が増大するのです。まさに言葉が「そうではない」という否定性とともに現れるということの実感です。

こうした「感じ」の原因を科学的に突き止めることはできます。一応医者ですので,”動脈の内膜と中膜の間に亀裂が入ってその間に血液の塊が生じ、それが平行感覚を司る小脳を養う血管へと浮遊し塞栓となったため、脳細胞の一部が壊死して小脳の機能が失われた”といった医学的説明で理解することは可能です。しかしながらそれらの「科学の言葉」が,この「感じ」のすべてを説明し尽くしてはくれないのです。というより誰もが理解できるような科学の言葉を尽くせば尽くすほど、今の自分のこの「感じ」そのものを説明することはできず、ギャップが開いてしまう。心の哲学で言う「説明ギャップ」を身をもって体験することになったのです。

科学の言葉

例えば,医療の世界では患者さんの痛みを「OPQRST」に沿って問診する方法が一般的です。すなわち痛みを

Onset=発症様式(いつどのように始まったか)

Palliative/Provocative=寛解・増悪因子(どうすると痛くなる/ならないか)

Quality=質(痛みの性質は?)

Region=部位(どこが痛いか)

associated Symptoms=痛みの伴う症状

Time course=時間経過(ずっとか,ときどきが,よくなってきたか)

の6つの要素に分けて聴くのです。

しかし,患者の視点で見ると,「もっさり」が上記のQuality=質かと問われると,前述のように微妙にずれています。Region=部位にいたっては,一応後頭部のあたりですが,本当の感覚は,物を取ろうとして触ったりした途端その物体にまで「もっさり」が広がるような,「境界線のない苦痛感」なのです。

もちろん,OPQRSTのように,自分の症状を分析的に表現することは,その後の診断や治療に大きく貢献します。たとえば狭心症の診断のとき,「胸が圧迫される感じ」と患者さんが表現した場合,狭心症としての「もっともらしさ(尤度比)」は1.3倍になることが統計学的に知られています。患者さんから「もっともらしさ」の高い言葉が多く発せられるほど狭心症の診断に近づいていきます。

しかしこの「もっともらしさ」は,患者個人それぞれの「感じ」を,患者一般の「圧迫感」という言葉に変換して表すことで得られる客観的な目安です。いっぽう私=患者が伝えたいのは,「もっさり」といった瞬間に削ぎ落とされる言葉にできない「感じ」なのです。それは私だけのもつ固有で「主観的な感じ」なのです。

”科学は主観的な「感じ」を削ぎ落として「客観的な目安」を残すことで成り立つ”
わたしはこのときその事を身をもって実感しました。

説明ギャップから来る絶望的孤独感

この客観的な言葉と主観的な「感じ」とのギャップの発見はとても恐ろしいです。
今の状況を主治医や家族に話そうと思うのですが,苦しんでいる自分とそれを見ている自分を分けることができないのです。それに、どこからどこまでが苦しいのか、からだに明確な境界線をひくことができないのです。それらの「感じ」を他人に説明すること自体、およそ経験したことのないようなよそよそしさというか、嘘くささを感じたのです。そんなんじゃないだろうと。

誰にも今の自分の苦痛の独特な感じを伝えることができないし、誰にも理解できそうにもない。自分の苦痛がその場その場で顔を変えながらそのひとだけに立ち上がる、唯一無二ものであり、本来他との比較を拒むものであることを自覚するのです。突き詰めていくと,私の苦痛を説明することは絶望的に不可能であるという深い孤独感にまで至るのです。

解決策としての「意味」の探求

この絶望的孤独感にまで至ったことは,私には驚くべきことでした。だったらどうすればいいのだろう。そこで立ち止まってしまい行き場のない思いがしました。

たしかに,従来から幾多の哲学者や思想家が述べてきたように,他人の「痛み」をほんとうの意味で知ることは決してできません。あの人はこのような痛みを感じているんだなと類推することは可能です。しかしその類推した感じは「私が感じた他人の痛み」なのであって,決して「私に立ち現れた私の痛み」ではないのです。私が感じた「もっさり」と全く同じ感じを他人が持つことは,絶対に不可能です。そこに前述の「絶望的孤独感」の源泉があると思われます。

一方で,私が「もっさり」だけでなく「何かが乗っかってくるような」「でも重いものではない」などなどと様々な表現をしたように,患者というのは,それでもなお医師や家族,つまり他者に今のこの感じを伝えたい,他者に知ってもらいたいというはるかな欲望も持っているのです。ただその言葉が,「感じ」に見合った適切な表現が見つからないのです。

哲学者の稲原美苗さんは,雑誌「現代思想」の中で,ご自身の病気からくる頭痛に対し,「キリキリ」というオノマトペが痛みの特性を即時に表現する手段として有効であるとしながら,イギリスの脳神経外科医ジョナサン・コールの著作を引きながら

”痛みのコミュニケーションとは言語だけに頼る一元的なものではなく,患者の痛みを患者一人ひとりの「生態系」の中で捉えて,様々な角度からそれを見据えた表現方法考えるものでなければならない”と述べ,「その痛みを持つことはどのようなことか」と問うことから始めなければならない”

現代思想 2011Vol.39-11 Vol.39-11 .p91

と指摘しています。

つまり,患者の痛みを単なる言葉だけでわかり合おうとせず,その人の生態系,すなわち生活やこれまでの人生の来し方などの中で考え,その中からわかりあえる表現を見出していこうということです。私たちは他人の痛みを「私の痛み」として実感することはできないが,しかし「その人にとって痛みがどのような意味を持つのか」を知ることはできる,ということだと思います。

病いの意味を知ること

では,患者にとっての痛みの意味,症状の意味とはどんなことなのでしょうか。
私の場合,もっさりな感じともに「高速ランダム回転性めまい」が断続的に生じ,とにかく起きることも,食べることも,排泄することもままならない状況となりました。急性の病気のときは,まず生命維持に必要な「食べる」「動く」「排泄する」といったことすらおぼつかなくなります。そしてとにかく日常の些細なことが「できなくなる」のです。この「できない」感じ,つまり機能不全感は,生命活動以外の様々なレベルで立ち現れます。買い物ができない,乗り物に乗れない,本が読めない,好きな映画が見られない,そして予定していた仕事ができないに至るまで。個人,生活,社会の様々なレベルでの「できない」が生じるのです。

そしてそのできない感,あるいはもどかしさを人に伝えたいと思うのです。その人にとって,そうした「できない」ことがどんな意味を持つのか,その病いがその人の趣味活動や日常生活,社会生活にどのくらい影響しているのか。」病気になったらまずそのことをまっさきに感じますから,それに関係のある家族や友人,職場の人に伝えたいし,医師にも知ってほしいと思うのです。

いっぽうで,同然のことながら,このまま「できない」でいるとこの先どうなってしまうのかという,未来への「不安感」が同時発生します。命はどうなるのか,今まで通り生活できるのか,仕事に復帰できるのか,などなど。

またこの「できない」感じは,職場の人に迷惑をかけてるのではとか,献身的に尽くしてくれる家族にほんとうに感謝したいというさまざまな感情を巻き起こします。

このように,症状から派生した「機能不全感」「不安感」「感情」といったものは,その人の生活背景とか文脈に非常に依存します。その人がどんな生活をしているのか,家族や友人との関係はどうなのか,どんなことを大切にしているのかなど,稲原さんの指摘した”「患者の痛みを患者一人ひとりの「生態系」の中で捉え”るということは,こういうことを指すのだと思われます。

こうした患者さん固有の「できない感じ」とそこから生じる不安,罪悪感,感謝などの「感情」を,個人,生活,社会のそれぞれのレベルで言葉で表現すること。これが病いの意味を知ることであり,患者さんの苦痛を直接知ることはできないけれども,こうした意味は知ることができると思うのです。このことがよくいわれる「共感」ということの正体だと思われます。

わかりあえないことをわかることからはじまるFIFE

さて,プライマリ・ケアの場ではもはや常套句となった,病いの意味へのアプローチ法に「FIFE(ファイフ)」というのがあります。これらは


・F(feeling=感情)    何が心配か、何を恐れているか
・I (idea=概念)       自分なりに、何が問題だと解釈しているか
・F (fuction=機能)     実際の生活でどのような問題が出ているか
・E (expectation=期待)  どのようなことを我々に期待して受診したか


の4要素から成り立ちます(日本では「かきかえ」と覚えることもあります)。

これまで私が,病いの意味として述べたことはちょうど上記のFunctionやIdea,Feelingに符合するものです。すでに病いの意味を引き出す作法が,家庭医療(総合診療)のフィールドにはしっかりと定式化されているのです。私も患者さんの問診のとき,このような聞き方を日常診療で良くします。

しかしながら,病い体験をしてからは,このFIFEを聞き出す根元の意味を考えずには使えないと思うようになりました。すなわちFIFEは私の経験したもっさりで表現される「あの感じ」そのものではなく,そこから派生した様々な患者にとっての生活や背景(生態系)に根ざした意味を聞くことこそがその本分であると。そこには相変わらず「もっさり」で言い表せない,そして「FIFE」という定式化で汲み尽くせないものがあるのだと。

言葉にできない,すなわち安易に物語に回収できない「感じ」というものを患者さんは抱えているのであり,それを単純なFIFEとしてルーチン化して聞き取るのではなく,そもそも絶対に共感できないものがあり,あるがゆえに「意味」を通じて別の形で「共感」するのだということを自覚すべきである。それを自覚した上でこそFIFEの価値があると考えるようになったのです。

FIFE,あるいは語りの中から生まれてくるもの

長くなりますが,私のもう一つの病い体験である,6年前の胸腺がんのときのことを少しお話します。
そのときはかなりの抑うつ状態になり,じつは精神科に通院しました。外の世界と幾重にも隔たりのあるような感覚でかろうじて生きている感じでしたが,精神科の主治医がそのことを「私自身がどう思っているのか」と聴いてくれたことがあります。主治医と話をする中で,「話しをしていても宇宙人と会話をしているような気がする」「通勤の200mくらいの道のりが2キロにも20キロにも感じられる」「1秒1分という時間が限りなく遅く,時間が過ぎていくのがすごく恐ろしい感じがする」というフレーズが自分の口から出てきて,自分でも心底驚いたことを記憶しています。

このとき主治医の先生はとくにFIFEという定式化した聞き方ではなかったのですが,巧みに私の考える「意味」を引き出してくれた,いや,というより話をしていく中で自分でも意識もしなかったような新たな「意味」が主治医の先生と私との間で「生成」されてくるような感覚だったのです。

FIFEにかぎらず,じつは病いの意味を自ら語っていく中で,自分でも気づいていなかった病いの意味というものが新たに生じてくる,そういう瞬間があることに気づきました。そうです。たとえば「時間が過ぎていくのが恐ろしい感じがする」という感じは語る中から新たに生成する,あのもっさりで代替された「感じ」に通じるのだと思います。

「あさイチ」で問われたことへの戸惑いとこれから

最後に,今回の取材で実は,たいへん戸惑ったことを書きます。
取材のとき「患者として病気と向き合うときにはどんなことが大切か(医師としてではなく、患者としての目線からお願いします)」と聞かれました。ところが私は,これだけ病い体験をしてきたにも関わらず「患者として」病気と向き合うという視点をほとんど持ってこなかったのです。むしろ医者として,患者さんには今まで述べてきたような「感じ」や「意味」への欲望があるのだからそれをわかった上で接しよう,という医療者としての視点しか持っていませんでした。

それは,おそらく良いあるいは賢い患者になるため術は,今述べたように,医療者との共同作業と通じ,自らの病体験を語っていく中で培われていくものであり,意識的にこう向き合えばいいと思ってもなかなか難しいという思いが根本にあったからだと思われます。

今思うことは,とりあえずは一番自分の「感じ」に合致したレトリック(オノマトペを含む)を探し,またなにができないか,それをどう思うか,どう感じるか,そして医療者にどうしてほしいかを整理建てて言葉にする,ということが考えられます。

しかしその一方,再三述べているように,「もっさり」やFIFEでは語り尽くせない何かが必ずあるのである。そしてそれでも医療者とともにそれを語ることで,語り尽くせないとはいえ新しい意味が生まれてくることがある。そのことを継続的に医療者と語り続けていくしかない。あさイチでコメントいただいた産婦人科医の高尾美穂先生も触れられていたように,伝え続けていくしかないと思います。

そうした共同作業のできる医師医療者と出会うことが最も大切であり,医療者としては,その共同作業をいつでもひきうけることのできる医師でありたい。いまはそう思うのです。

最後に,こうしたことを考える貴重な機会を与えていただき,取材や編集で大変お世話になりました,NHKのTディレクターをはじめ多くのスタッフの方々に改めてお礼を申し上げたいと思います。


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