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(既刊エッセイから) ---「祖父の日記」

もう6月。当地は梅雨のようなジメジメと湿気寒い天候です。
皆様、体調はいかがですか。ご訪問、閲覧ありがとうございます(๑´ω`๑)

このところエッセイを載せていないので、ウィークエンドにどうぞ。
私の最初の本(エッセイ集)は現在絶版ですが、「読んでみたい」というお声をしばしば伺うので、中からサルベージしてマガジンにまとめています。
これはその中に入っていない1編です。

noteでは一貫性なくあれこれ書いているので、何だかよく分からない奴と思われているかもしれませんが、こういうのも書きます( ^ω^ )

 祖父の日記


 今年も街の書店や文具店に、来年の日記、手帖、カレンダーが並ぶ季節になりました。パソコンやPDAで日記をつける人も珍しくない時代ですが、いまだに日記帳には根強い需要があるらしく、男性用、女性用、高級なの、手ごろなのと、いろんなタイプが並んでいます。その日、私は来年の手帖を探してショッピングセンターの文具店をひやかしていました。あれこれ手に取った末にいつもと同じシンプルな手帖に決めて、そのまま日記帳やカレンダーのコーナーを眺めていると、ある所で足が止まりました。
「これは……」懐かしさで胸がいっぱいになり、そっと表紙を撫でてみました。


 私の母方の祖父は明治時代に東北の寒村に生まれて、すぐに里子に出されました。里親の家には義理の弟たちがいて、その面倒をみるために尋常小学校しか出ませんでした。それでも独学で本を読んで漢字を学び、やがて警察官になりました。ずーっと昔のことなので、今とは採用基準が全然違っていたのでしょう。そして見合いで祖母と結婚しました。
 祖父の在職中は東北の小さな町の駐在所回りで過ごしました。交番に勤務して、何かあると自転車で駆けつける「おまわりさん」です。出世にも大きな事件の捜査にも縁がなく定年まで勤めあげて、退職後は町内会の世話役や民生委員などをしていました。


 私の父は転勤が多く、私は小学校の六年間に五回も転校しました。そんなこともあり、おちついて勉強するために中学の一時期を祖父母の家に預けられていました。それまでも夏休みや正月には遊びにきていたけれど、長く一緒に暮らすのは初めて。外出好きの祖母はほとんど家にいなかったので、まだ友達が少なかった私は帰宅後を祖父と過ごすことが多く、昔の話を聞いたりトランプや挟み将棋などをしていました。


 日曜はデパートの食堂に連れて行ってもらったり、植物園を散歩したり、そういえば「歩け歩け運動」に熱心に参加していた祖父と共に遠くまでウォーキングに行って、その後に食べた菓子パンと牛乳がおいしかったことを覚えています。
 祖父は真面目・実直を絵にかいたような人で、とくに面白い話をしてくれるわけではないし、明治の人らしく感情表現も苦手でしたが、私のことは可愛がってくれたように思います。

 
 恵まれない育ちで昔気質の祖父は、生活全般がとても質素でした。紙切れ一枚も大事にして、裏の白いチラシを集めてメモにしたり、何でも粗末にしませんでした。ケチというよりも物を大切に、丁寧に生きていた気がします。祖父は何十年も卓上型のバインダー付き日めくりを日記にしていて、一日の終わりにその日の出来事を綴るのが日課でした。


 茶の間の祖父の席の横にはお菓子の空き箱が置いてあって、そこに鉛筆やボールペン、定規などの筆記用具と、その日めくりが入れてありました。たまに覗いてみると、独学で字を覚えたせいか、時に誤字もありました。内容はその日の出来事を淡々と綴ったものです。平凡な定年退職者ですから特筆するような出来事がそうあるわけもないのですが、「日記」を書く時間は祖父にとって特別なひとときのようでした。


 一日の終わり、大抵は夕食後に座卓の上にチラシを置いて、まずは年季のはいった小刀で鉛筆を削りました。それから前かがみになって、独特なクセのある字で書いていましたが、その時の祖父には声をかけるのがためらわれるような一心なものがありました。あれは一日を無事に終えたことを確認する時間だったのかと思います。


 やがて時が流れて私は社会人になり、あんなに元気だった祖父は老いて病み、入院しました。私自身、成長してからは自分のことで手一杯で、同居していた祖父と話す時間も少なくなり、優しく接していたとは言えないと思います。祖父は病状と共に病院を変わり、亡くなった時は九〇歳の大往生でしたし、悲しいというより「ついに……」という思いでした。


 そんなある日、私は祖父の部屋でホコリをかぶっていたあの日記を見つけました。めくってみると、クセのあるしっかりした字が日を追って乱れていき、入院する前の頃には力尽きたように、もう文章になっていませんでした。あんなに日記を書くことを大切にしていたのに……私は涙がポロポロこぼれました。


 私はずっと職業ライターとして文章を書いてきました。個人的な楽しみとしての創作と生活をかけた職業としての創作では、取り組むスタンスも違ってくると思います。いいものを書こうという気持ちは同じでも、商業活動のパーツとしての文章を書くにはビジネスライクな醒めた視点が必要になるからです。
 長くやっていれば慣れも出ますし、書くことの純粋な喜びも正直言って忘れがちになります。でも、そんな時に思い出すのは、どこに発表するでもないのに一字一字に向き合うように鉛筆を握っていた祖父の姿なのです。

 ところで孫の私は恥ずかしいことに日記が書けません。何度も書こうと努力はしたのですが、いつも三日坊主で挫折しています。きっと一生、日記は書けないなぁと寂しく思いつつ、毎年飽きずに日記帳のコーナーを覗いています。いつかは……と胸の中で温めるものが、一つくらいあってもいいよね、と。

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今も時々、祖父のことを思い出して会いたくなります。亡くなった肉親は、時が経つにつれて懐かしくなりますね。お祖父さん、お祖母さんがご存命の方は、会えるうちにぜひ一緒の時間を。(´ェ`) 谷内六郎さんの絵です

好きな本から。明治生まれの祖母についての、心に残る名エッセイ。

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❤これ凄いよ〜。一般人のお祖父さんが孫のために作った「100%昭和ドールハウス」。細部まできちんと再現されて、私は大量生産の洋風ドールハウスより、断然こっちです( ˙ω˙)و グッ!
玄関の三和土、タイル貼りの風呂場とか…泣ける。昭和の男性も必見。 

素人が作ったというから驚き
団地にこういう部屋あったよね

閲覧ありがとうございました( ^ω^ )
こちらはフィクションですが、野生動物関係者の方からもご好評を頂いています。



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