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挫折とダンディ坂野色のタウンワークと2億円

修士論文がまったく書けない。

自分の書くものが、全部つまらなく、隙だらけで、間違ったもののように見えてくる。全然満足がいかない。自分の無能さが嫌になる。
そうはいっても書かなければ始まらないのだが、悪しき完璧主義が邪魔をして、目次さえきちんと出来上がらず、提出を諦めてしまった。

しかしもちろん、調査方法としてインタビューを選んだ以上、インタビュイーの方々には責任を果たさなければならない。腰をすえてじっくり向き合うことに決めた。留年である。



自分で言うのもなんだが、これは人生で初めての挫折だといっても過言ではないと思う。
それほど恵まれた人生だったつもりもないが、低温な人生なりに谷はなかった。



中学2年生のときに、父親がリストラされたが、それほど苦しくはなかった。

ある日、家に帰ると、食卓にタウンワークが乗っていたのだ。
黄色というよりはダンディ坂野色のその表紙に、目がチカチカした。

あの言いようのない不安といったらなかった。
ふだんは無口で職人気質な父親が、その日は痛々しいぐらい笑顔だったのを覚えている。

しかし、晩飯が白米とスタミナ納豆だけだった日もあったけれども、納豆に鶏ひき肉を混ぜる余裕があった以上、我が家は「極貧」ではなかった。
そもそも、父親は挫折したのかもしれないが、自分が挫折したわけではない。



東大受験も、つつがなく現役で合格した。

といっても、当時、合格発表のために北海道からはるばるキャンパスまで見に行くほどの見込みは感じていなかった。合格する確率は5割を切っているような気がしていた。
だから、合格発表前日は1日早い残念会のつもりで、友達を我が家に泊めて、朝まで遊んでいたのだった。

東大合格は、親戚からの電話で知った。
10時ぴったりにネットで合格発表を見る気力もなく、だらだら寝ていたら、伯母から母親に「受験番号あったよ」と連絡があったのだ。

その瞬間のことはまざまざと覚えている。東大合格を聞いた僕の第一声は、「やったー!」とか「マジ!?」ではなかった。「最近の若い子は挫折を知らないねえーーー!!」と叫んだのだ。このメタ発言っぷりと嫌味の才である。



当たり前だが、東大に入学すると周りは東大生ばかりだ。だから、自分の頭の悪さに辟易とするときがある。が、挫折というほどのことではなかった。ただ、どう考えても自分より頭の良い人たちが堅実に就職活動に向かうのを見て、何か寂しい気持ちにはなった。

一方で自分は、「サラリーマンの才能よりは研究の才能のほうがあるだろう」と思って大学院に進学した。実際、卒論を書いているときは、「こんな時間がずっとずっと続けばいい」と思っていたのだ。



東大のS先生は、前に「研究者人生で修士課程が一番つらい。修論は2億円積まれたって二度と書きたくない」と言っていた(ただし、「5億円積まれたら喜んで書く」とも言った)。
その意味を僕は遅れて知ることになった。



書くしかない、書くしかない、と思いながら、僕はこんなものを書いている。
つまらないつまらないつまらない。いやだいやだいやだ。



悪しき完璧主義から抜け出すためには、「自分の書くものなんて大したことない」と気づかなければならない。


ここで、ここでピリオドを打つしかないのだ。

研究経費(書籍、文房具、機材、映像資料など)のために使わせていただきます。