[短編絵物語] 絵の中からきた少女、そして二人は絵の中へ消えた
「コトン」と小さな音がして白い封筒がドアの下に落ちた。
「郵便だ。陽子からかな?」
バラの花を描いていた絵筆をおくと、カップに熱いコーヒーをそそぎ、手紙をとりにいった。
ぼくは、美術学校を出て半年の、絵描きのたまごだった。
近所の画材店で絵を売ってもらい、どうにか暮らしはじめたところだった。
まだまだとても、まともに生活していくほどの収入はなかったが、こうして好きな絵を描いてさえいられれば、ぼくは幸福だった。ほかには何もいらなかった。
「やはり陽子からだ。しばらく会っていないけど、どうかしたのかな?」
コーヒーを一口飲むと、手紙を開けて読みはじめた。
ぼくは息をのんだ。近く結婚するとかいてある!
目の前がまっくらになり、膝ががくがくふるえだした。手紙をにぎったまま、ぼくは床にへたりこんだ・・・・・・
美術学校で、ぼくと陽子は同じクラスだった。ひまさえあれば絵の話をしていた。いつもいっしょに絵を描いていた。仲のよい友達どうしだった。
このまま一生、二人いっしょに絵を描いて暮らしていけたら、どんなに幸せだろうと思っていた。
しかし、学校を卒業すると、ぼくは絵を描いて暮らすようになり、陽子は、地方の中学校の美術の先生になった。
はなればなれになったが、いつか、生活できるようになったら、陽子と結婚しようと思っていた。
まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった・・・・・・
「陽子が結婚する。ぼくになにも話もしないで・・・・・・」
「どうして?」
「信じられない・・・・・・」
その晩、ぼくは一睡もできなかった・・・
朝になってもためいきばかりで、何も手につかなかった。こらえきれない悲しみで気が狂いそうだった。
「絵が売れたかもしれない。そうしたらその金で酒でも買ってこよう」
ぼくは、ふらっと立ちあがると、ドアを開けて外に出た。
見なれた町の景色や通りすぎる人が、古い写真を見ているように、かすんで見えた。
雑踏の中を歩いているのに、まわりのもの音がなにも聞こえてこなかった。まるで知らない町をさまよっているような気がした。
「ああ、どこか遠くに行ってしまいたい・・・・・・」
ぼくは大きく息をはいた。
駅のむこうの大通りに画材店があった。
ぼくの絵を売ってくれるこの画材店を見つけるまで、たいへんな苦労をした。大きな絵を何枚もかかえて、あちらの画廊こちらの画廊と、毎日、地図を片手に歩きまわった。
しかし、世の中はきびしかった。
どこへ行ってもまるで相手にされなかった。学校を出たばかりの、名前も知られていない絵描きの作品など、だれも買ってはくれなかった。
信号を渡ると画材店が見えてきた。
「僕の絵がない? 売れたのかな!」
ショーウインドに、ぼくの絵はなかった。かわりに、外国の作家の、きれいな版画が並んでいた。
ぼんやりつっ立っていると、画材店のおじさんが出てきた。
「元気がないね、なんかあったのかい? まるで幽霊のようだよ。あ、その版画かい?」
ぼくは、ショーウインドを見つめていた。
「最近、その作家は人気があってね、よく売れるんだ。君の絵もなかなかいいんだけど、やっぱりどんどん売れてくれないとね、こっちも商売だし、 君のはまたそのうちかざらせてもらうから・・・・・・」
おじさんは、なぐさめるようにぼくの肩をたたいた。
「もしかして振られたのかい?」
ぼくは、うなずいた。
「ふーん、そんなにいい子だったのかい? 話してごらんよ。こういうことは、はきだしちまったほうがすっきりするから」
棚のスケッチブックをそろえながら、おじさんはいった。
ぼくはだまったまま、ゆっくり首をふった。とてもそんな気持ではなかった。
「そうかい、しかし早く元どおりにならなくっちゃね。あ、そうそう、この前たのんでいたバラの花の絵、すまないがちょっとストップしてくれないか。しばらくこの版画を売ることにしたから」
画材店を出ると、ぼくは歩道のまん中につっ立って、ぼうぜんとして空を見上げた。
「もう、ぼくの絵を売ってくれない。大変なことになった」
お金は、わずかしか残っていない・・・・・・また、画廊さがしに歩き回らなければ・・・・・・
通行人につきとばされて、ぼくは歩きだした。
町の中をあてもなくさまよった。
今どこを歩いているのかまるでわからなかった・・・・・・
気がつくと、町はずれの、広々とした河原の土手に立っていた。すわることも忘れて、ぼんやり河の流れを見つめた・・・・・・
あたりはいつのまにか暗くなっていた。
黒い影になった、河の向こうの街の家々の上で、夕日に照らされた遠い山々が、そこだけ別世界のように、オレンジ色に輝いていた。
ぼくは、深いためいきをついた。
「ああ、あの夕焼けの山のむこうの、はるかかなたへ、行ってしまいたい・・・・・・」
「そこには、だれも知らない [夕日の国]があって、やさしい恋人と、二人っきりで海を見つめながら、いつまでも幸せに暮らすんだ・・・・・・
生きていく気力をまったくなくして、ぬけがらのように部屋にとじこもり、[夕日の国]を空想してすごしていたある日の午後、気晴らしに近くの公園に行った。
広場のむこうの池のほとりで、女の子が絵を描いていた。
髪の長い少女だった。
ふらふらと少女のほうへ歩いていって、うしろからそっとキャンバスをのぞいたぼくは、目を丸くした。
「へー、おもしろいね!」
ぼくは、自分の声におどろいた。こんな明るい声を出したのは、久しぶりだった。
サングラスをかけ、水着でいすにすわって本を読んでいる、ぶたのおばさん。日傘をさして、すました顔でボートに乗っている、うさぎの恋人たち。ライオンのおじいさんが、池のまわりの夢のような花に水をやっている・・・・・・
ただの写生ではなくて、やさしい、メルヘンの世界だった。
「いいなあ!」ぼくはさけんだ。
「夢の国なんです」
少女は、貝の笛をそっと吹いたような、かぼそくやさしい声で答えて、ふりむいた。
「・・・・・・・・・」
ぼくは息が止まり、心臓がドキンと鳴った。
目に見えない夢の世界を見つめているような、神秘的な瞳。遠いメルヘンの国から来た、もの静かな妖精のようだ・・・・・・
ぼくは、ひとめでこの少女のとりこになってしまった。重く止まったぼくの心が、ピクンと動いた。
「ぼくも絵を描いているんだ。でも今ちょっとだめだけどね」
「どうしたの?」少女はぼくを見つめた。
ぼくは、少女のそばにすわった。おだやかな少女の声を聞いて、胸にたまっていた苦しい思いをはきだした。長い髪を静かにゆらして、少女はうなずいた。
すっかり話おわった時、ぼくの苦しみは、うそのように消えていた。
「ありがとう。元気がでてきた!」
にっこり笑ってあたりを見ると、きれいな夕焼けだった。池もキラキラ輝いていた。
「もう、帰らなくっちゃ」
少女は立ちあがると、絵の具を拭いてかたずけた。ぼくも立つと、三脚をたたんで、大きなバッグに入れてあげた。
「これ、あげる」
少女は、一本の新しいオレンジ色の絵の具を、さしだした。
「ありがとう、じゃ、重いバッグ、持っていってあげるよ」
夕日に染まった通りを、少女と並んで歩いた。
「どこから来たの?」
すると少女は、いたずらっぽい目つきをして、小さく「クスッ」と笑うと、夕焼けを指さしていった。
「[夕日の国]から・・・・・・」
「えっ?」ぼくはおどろいた。
ほんとうにおどろいた。ぼくの[夕日の国]のことなんて一言も話していなかったから・・・・・・
「まさか?」
「ほんとうなの」
ぼくは立ち止って、夕焼けをじっとながめた・・・・・・
ふりかえったとき、どこにも少女の姿がなかった。
キョロキョロと、あたりを見回したが、かげもかたちもなかった。重いバッグもなかった・・・・・・
まるで、かき消すように少女がいなくなって、あっけにとられたぼくは、ふり向いて、また夕焼けをながめた。
「あの夕焼けの空の向こうに、飛んでいったのだろうか?」
西の空いちめんに、たくさんの雲が、オレンジ色に輝いていた。
どの雲も、のんびり自分の生活を楽しんでいるように、じっと動かなかった。まるで、あの少女の描いていたメルヘンの動物たちのようだった・・・・・・
ぼくは、気をとりなおして歩きだした。
おもいがけない少女と出会って、ぼくの心はおおきくはずんでいた。
歩道橋の階段を、ピョンピョン飛ぶようにかけおり、にぎやかな商店街を大またに歩くと、口笛がでてきた。
あたたかい春の夕方だった。大きく息を吸うと、あまい花の香りがした。
家に帰ると、少女がくれた絵の具を、ポケットからとりだした。
こんなにすきとおったオレンジ色は、どこにも売っていなかった。
うっとりとして絵の具をながめていると、少女の顔が目の前に浮かんできた・・・・・・
ふしぎな妖精のような少女だった。そばにいるだけで、心の安らぐ少女だった。あんな少女に会ったのは、生まれてはじめてだった。
「あしたも来るだろうか? また会いたい」
次の日、朝早く起きて公園に行った。一日中、池のそばのベンチにすわっていた。
その日、少女はこなかった。
次の日も行った。その次の日も・・・・・・
しかし、それっきり少女は公園にやってこなかった。
「もう二度と会えないかもしれない?」
ぼくの胸は、痛いほど切ない想いでいっぱいになった。
「ああ、もう一度会いたい! あの少女に出会うために、ぼくは生まれてきたんだ・・・・・・」
「もう公園には来そうもない」
「どうしたら会えるだろう?」
「どこにいるんだろう?」
ぼくはまた部屋の中に閉じこもってしまった。
頭をかかえてころがった。
何日かがすぎた。
「どうしたら会えるだろう? [夕日の国]から来たといっていた。どうしてぼくの[夕日の国]を知っていたんだろう・・・・・・」
ある日、頭の中でなにかがいなづまのようにひらめいた。
「そうだ、[夕日の国]の絵を描こう! そうすれば、あの少女に会えるかもしれない」
絵を描く少女なのだ。絵が好きな少女なのだ。作品を描いて発表したら、かならず見にくるにちがいない。
そのために、この絵の具をくれたんだ。さっそくあしたの朝から始めよう」
朝、明るくなるのが待ちきれなかった。いそいで食事をすますと、さっそくとりかかった。
腕を組んで目をつぶると、心の底にただよっていた想いが静かに浮かんできた・・・・・・
夕日に染まった美しい入り江。
入江にかかる、小さな石の橋。
橋の上にたたずむあの少女。
橋のたもとの青い樹と、白い家・・・・・・
ぼくは、ゆっくりと目を開くと、バラの花を描いていた大きなキャンバスの上に、[夕日の国]を描きはじめた。
バラの花はオレンジ色におおわれ、たちまち消えた。
何度も描き直した。描いては消し描いては消し、入江の位置を、上げたり下ろしたり、石の橋を右にずらしたり、大きくしたり・・・・・・思い通りの構図になるまで、はてしなく描き直した。
オレンジ色が主の画面だったので、少女にもらった絵の具をどんどん使った。
絵の具はたちまち減っていき、ぺったんこになっていった。
しかしふしぎなことに、翌日になると元どおりにふくらんでいた。いくら使っても絵の具はなくならなかった・・・・・・
描きはじめてから何日たったのだろう?
どうしょうもなく疲れるとごろんと寝た。
目がさめるとまた描きだした。
いつ朝がきていつ夜になったのか、まるで覚えていなかった。
とっくに最後のパンも食べてしまって、水を飲みながら、あふれる想いを吐き出し、ぼくは、狂ったように描きつづけた・・・・・・
気がつくと、描き直す所がなくなっていた。
見ると、オレンジ色の絵の具がぺったんこになっていた。
ぼくはそっと筆を置くと、すこし離れて画面をながめた・・・・・・
絵は、深いオレンジ色に輝いていた。
あの、公園で出会った少女が一人、石の橋の上に立って、眠ったように静かな入り江の夕焼けを、うっとりとながめている。
橋も岬も、鏡の上に置かれたように、くっきりと水に映っている。
青い樹も白い家も、長い影をひいて、時間がぱったり止まったような、永遠のたそがれ時・・・・・・
「できた!」
ぼくはさけんだ。
「これは、ぼくの世界だ。ぼくの[夕日の国]だ。こんな夢のような世界で、この少女と二人っきりで暮らせたらどんなにいいだろう! ほかになにもいらない・・・・・・」
ぼくは、いつまでも絵をながめていた。
この絵を見たら、あの少女はなんていうだろう? 早くあの少女に見せたい・・・・・・
しかし、生きるエネルギーをすべて出しつくして、もう、動けなかった。 からっぽだった。
空腹と疲労感と、満足感が入り混じって、ぼくは化石のように、壁にもたれていた。
部屋がすっかり暗くなって、透明なブルー一色につつまれたころ、ぼくは床に倒れたまま動かなくなった・・・
それから・・・・・・どれだけ時間がたったのだろう・・・・・・
「だいじょうぶ?」
耳元でやさしい声がした。
夢から覚めたようにぼんやり目を開けると、ぼくは部屋の中でたおれていた。
髪の長い少女が、じっとぼくを見つめていた。
「あの少女だ・・・・・・!」
ドキッとして、ぼくは目をみはった。息もできないほどのよろこびが、はげしくこみあげてきて、胸がいっぱいになった。
ぼくはものも言えず、ただ少女を見つめていた・・・・・・
部屋の窓が夕日で赤く輝き、カーテンも少女も赤く染まっていた。
少女が立ちあがってカーテンを開けると、窓辺に赤やピンクの花を植えた鉢が並んでいた。窓の外に青い樹が見えた。
ぼくの知らない部屋だった。こざっぱりときれいな、白い小さな部屋だった。
「ここはどこ?」
すると少女はほほえんだ。
「ここはあなたの描いた[夕日の国]よ。あなたが来るのをずっと待っていたの。さあ、外に出て、すてきな夕焼けをいっしょにながめましょう・・・・・・」
ドアを開けて白い家の外に出ると、まさしくそこは[夕日の国]だった。
青い樹も白い家もオレンジ色に染まり、長い影を引いていた。
ぼくたちは小さな石の橋に歩いて行った・・・・・・
どうしてもバラの絵が欲しいという客の注文があって、画材店の主人は、絵描きの若者の家をおとづれた。
しかし、若者はいなかった。となり近所に聞いてみても、わからなかった。
まるで、あとかたもなく、どこか知らない世界へ行ってしまったかのようだった。
部屋に、一枚の大きな絵が残されていた。
ひとめ見て、画材店の主人は、動けなくなった。
はげしい感動が心をふるわせたのだった。
それは、想いのたけのあふれた、夢とあこがれの世界だった・・・・・・
画面は左手に青い樹と白い家が描かれていた。右手には小さな石の橋とその向こうに夕焼けに染まった入江が描かれていた。
石の橋の上に、少女と若者が並んで立っていた。
あの、絵描きの若者にそっくりだと、画材店の主人は思ったが、うしろ向きで顔が見えないし、夕焼けで黒いシルエットになっていたから、それ以上のことはわからなかった。
( 完 )
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