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映画『めくらやなぎと眠る女』日本語版 を観て

 ある日、YouTubeを見ていたらアニメ調のサムネが目に入った。『めくらやなぎと眠る女』日本語版とある。村上春樹の小説を海外の監督がアニメ映画にしたというニュースをどこかで見た気はするがその後、その話を追ってはなかった。



 とりあえず再生してみると、自分が知らない声の出演者に混じって塚本晋也、古舘寛治、平田満、柄本明など気になる名が連なっていた。
映画の詳細を調べてみるといくつかの短編をひとつの話にまとめているようだ。

それぞれの話は読んだことがあるものも、心当たりのないものも混じっていたが、どっちにしろ細部は覚えてなかった。「かえるくん、東京を救う」は個人的に印象的な話だったのでどんな風に映画で描かれているのか興味が湧いてきた。

上映している劇場を探してスケジュールを確認してみると、まだ上演時間までは余裕で間に合う。しかも、こんな風にいろいろ調べている正にその日が公開初日だった。速攻で行くことに決めた。

 実際に観てみて最初の感想は「違和感なく話に入っていける」だった。
最初から絵柄のタッチを受け付けない人は駄目かもしれないが、数か所のシーンで「あまり日本っぽくないな」「外国から見た日本っぽいな」と思うところはあったが、全体的には話の内容が入ってこなくなるような画的な要素はなかった。
いくつかの短編を繋げているという違和感も特になかった。細かい説明が無い部分はあるが会話の内容や雰囲気でそれほど無理なく想像できるように思う。
 

 村上春樹の作品の分析に、「主人公が大切な〈何か〉を失ってしまうが、それが〈何か〉気付いていない、あるいは失ったことに気付けていない。(それに気づくための試練として超常現象が起きる)」というような解説をよく見るような気がするのだが、今まで自分的にはいまいち腑に落ちなかった。
村上作品の主人公は小さなことでも大切にして生活をしているようなキャラが多く、「大切なものがなくなる」のに気付けないような鈍感な感じを受けないのも、この説が自分にしっくりこない理由でもある。
 次に「主人公が〈傷ついている〉ことに気付いていない。あるいは認めていない。(なので、自分を見つめるための試練 以下略)」というのもあるが、こちらはまだ何となくわかるような気もするが、やっぱりちょっと違う気がしていた。
この場合はじわじわと、あるいはあることをきっかけに堰を切ったように〈痛み〉を感じるような描写が物語の中で大概ある。主人公は思いっきり泣いたり、感情的にはならずとも、心身ともに疲れ果てたり、環境を変えるために旅をしたり住まいを変えたりする。

作品では登場人物の日々の生活や心理描写以外に、得体の知れない物事や、現実には〈起こりえない出来事〉が主人公たちの身に起こり、なぜか読者が引き込まれる。どうして、そんなことが可能なのか。 


この映画のパンフレットに書かれていた監督のコメントを見て、それらの疑問に対して自分のなかで全てが繋がった。

主人公たちは人生に行き詰まりながら、そのことに気づいていない。

ピエール・フォルデス 『めくらやなぎと眠る女』についての覚え書き



主人公は自分にとって大切なこと(もの)を見失ってはいないが、「人生に行き詰った」ことに気付いていないのである。

ここでの「人生に行き詰った」とは「もう、後がない」という意味ではなく「もう、今までと同じ(ような)行動でやり過ごそうとしても通用しない」という意味だと思う。
それは考え方も行動も「根本的な変化」が「状況」から要求されているということだ。

 「人生に行き詰った」ことに気付いていない主人公は、「状況」的に問題があるのに今までと同じ態度や行動を続けたり(必ずしもその態度や行動自体が問題というわけではなく、「状況」と極端に相性が悪い)、自分が傷ついたことに対しても、本来なら一旦立ち止まって、場合によっては根本的に〈何か〉を変えなければならないところを、大したことでもなかったように、今まで通りに振舞おうとして拗らせていくのである。

「根本的な変化」の為には意識的にしろ無意識的にしろ、今まで自分で蓋をしてきた「トラウマ」的な部分にも触れなければならなくなる。それが、いわゆる「井戸」などの「闇」に関するメタファーが表していることなのではないかと思った。


 話が大分ずれてしまったが映画の話に戻ると、ラストが意外とあっけなく終わる感じがして消化不良な印象だったので、字幕版も観てもう一回確認してみようかなと思った。

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