見出し画像

「わかりやすさ」と考える行為

「丸山真男さんの文章の文章って、読みやすくてわかりやすいので、すっーと読めてしまう。引っかからないから考えなくてもよい。だから読めた気になって実はなにも読み取れてない人が多いのではないか」

西部邁 佐高信[学問のすゝめ]

たまたま目にしたアーカイブ映像の中で、西部邁さんがそう語っていました。

この際、丸山真男の文章が読みやすいかどうかはさておき(僕には難解に思える文章が多いので)、「わかりやすい文章は考えなくても読めてしまう」との指摘に僕自身、思い当たるところがありました。

■多読していたころ

僕は以前、「ビジネス書ブロガー」のようなことをしていました。当時はビジネス書を多読していて、おそらく年間100冊以上、最盛期は200冊近く、読んでいたと思います。

なぜそれほど早く読めたのか。書いてあるのはほとんどが知っていることだったからです。8割、よく読む分野であれば9割は既知の内容でしたから、どんどん読める。1冊読んで知識が増えれば、次の本はもっと早く読めるようになります。さらに、最近のビジネス書は、文章は平易、難解な表現も少ない、著者の主張は最初からハイライトや太字にされ、各章にはまとめがある、など親切極まりない構成になっているものが主流になっていますから、さらにスピードは増していきます。

■多読が出来なくなって

ところが、中小企業診断士になり、必要に迫られて経営戦略や管理会計の本を読むとそうはいきません。未知な事柄が多々出てきますから、サクサク読めるわけではありませんでした。それでもまだ、読んでいたのが専門書、学術書の類いではありませんでしたから、なんとか読み進められました。

しかし、大学院に入るとそうはいきません。課題図書のほとんどは学術書、参考文献は論文、となってくると、すらすら読めるわけがありません。当初はビジネス書を読んでいた当時のイメージが自分の中にありましたから「なんでこんなに読めなくなったんだろう」と考えてしまいました。

でも読めないのは当たり前です。知らないことが書いてあるのだから。ビジネス書のように重要なところがハイライトや太字になっていることもありません。専門用語も容赦なく使われていて、中には初見の言葉も出てきます。つっかえつっかえ読むしかないのです。それをストレスに感じていた時期があったのですが、最近になってようやく、こうした読み方に価値があるのだ、と気づきました。

■いまの僕にとっての読書

読書とは著者から一方的に情報を与えられるものではなく、著者との対話を通して自ら考え、自分の中の問に向き合うことだ、と思うようになったのです。だから、冒頭紹介した、西部邁さんの言葉に反応したのだと思います。

以前、こんなコラム書いていました。

その中で紹介(引用)したのが次のフレーズです。

皆さんも、最近の書籍は、読者フレンドリーなものが多いと感じませんか?
文章は平易、難解な表現も少ない、著者の主張は最初からハイライトや太字にされ、各章にはまとめがある。知らず知らずに、この「わかりやすさ」が当たり前になり、私は、自分で思考することを放棄していたのかもしれない。

アート思考研究会HP書評『アート思考〜ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法〜』

わかってたんじゃん、自分、と思ってしまったのですが(苦笑)

■書き手から見てみれば

今回のような内容を書くのは気が引けていました。自分が書き手になったとき、わかりにくい文章を書く言い訳になってしまうのではないか、との想いが拭えなかったからです。もちろん、どうやったら相手に伝わるか、そのことを考えて書いていますし、だからわかりやすく書こうとは思っています。ただ、自分が読み手になったときを考えると、わかりやす過ぎるのも罪だと思えるようになりました。

自分の年齢、これからの仕事、過去の蓄積、などを考えれば、これから多読をする必要もないでしょう。1冊1冊の書籍と向き合い、考えながら読んできたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?