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とことん自分と向き合った3日間。【蠍座満月のワーク】

noteを初めて10日くらい。初めてサークルに参加した。
ヒーラーのMERUMOさんの立ち上げたオンラインコミュニティ
『星たちのランデブー』

参加した翌日に提示された最初のワークが
「蠍座満月のタイミングで、自分自身の抱えている我慢や執着、嫉妬心についてアウトプットする」というもの。
今回は、それをやってみようと思う。何だか怖いなぁ。

フライングからの再スタート

note始めたきっかけでもあるのだけど、最近、というか今年、私のなかで(特にSNSでの)アウトプットがテーマだったので、
期せずしてこんな記事を書いていた。
これを書き終わったタイミングでこのワークが降ってきたというのは、まだ足りない、もっとちゃんと考えなさい、ということなのだろう。この記事を書くまでの3日間、気がつくとそちらに意識が向いていた。

我慢、執着、嫉妬心

我慢、執着、嫉妬心、と言われて、1番自分が持ってるなと思ったのは、嫉妬心。

私は、自分が結婚していないこと(したことがないこと)がかなりコンプレックスだ。一度結婚しかけたこともあるがそれも白紙になり、「あ、やっぱり私は結婚出来ないんだ。」と思ってしまってからは、余計に。
だから、会社の同僚から奥さんの愚痴や喧嘩の話を聞かされても、心の中では「奥さんいるだけいいじゃん」って思っているし、どんなに仲の良い友人であっても、結婚報告に対しては、おめでとうと言いつつ、どこかで素直に喜べない。
仲が良い子であればあるほど、気が合ったり考え方が似ていたりするわけで、どうしても、「なんであの子にもできることが自分にはできないんだろう」と思ってしまう。これは完全に「嫉妬」だと思う。

と、ここまで書いてみて、めちゃくちゃ「結婚」に執着しているな、と思った。

独りで死にたくない

実は心の底から結婚したいと思ったことが、これまでの人生で2回ある。
1回目は、大学時代の病院実習のとき。
実習で病棟を回っているときに、夫が入院している横でかいがいしくお世話をしている妻や、逆に妻が入院していて、とても辛そうにしている横で、何もできずにオロオロしつつもずっと寄り添っている夫、という姿を見かけた。
当時は恋人もおらず、一人暮らしをしていたので、「今わたしが入院したら一人ぼっちかー」と、見かけた夫婦の隣のベットに一人で寝ている姿を想像したら、孤独すぎて悲しくなった。気持ちの部分で完全に病気に負ける。独りで死にたくないなと強く思った。
辛い時にずっと寄り添っていてくれる相手がいるって、辛い時に支えたいと思う相手がいるって素晴らしいことだなと思い、この時初めて結婚というものを意識した。
でも今思えば、独りで死にたくないから結婚したいって、極論すぎるし傲慢すぎる。

「わたしには家族がいません」

2回目は、アメリカに語学留学に行ったとき。
語学学校のビジネスコースに通っており、そこでは毎週新しい人が入ってきたり、誰かがプログラムを終えて卒業していくため、少なくとも毎週月曜日は授業の度に自己紹介の時間があった。(授業によって先生が変わるため。)それ以外でも、ちょこちょこ自己紹介の機会があった。
そこで必ず聞かれる質問が「Do you have a family?」だった。

日本人のわたしはこれをそのまま「家族はいる?」という質問だと認識した。親も兄弟もいるし天涯孤独ではないのだから、答えはyesしかない。というか、こんなのnoの答えになる人の方が少ないはずなのに、何で毎回質問されるんだろうと思った。
しかし実際yesと答えると、その後の質問が噛み合わなくなる。数回目でもしかして…と思い、先生に「私は親も兄弟もいるけど、結婚はしていない。その場合は何と答えるのが正解なの?」と聞いた。
その答えは「No.」だった。
英語圏での「Do you have a family?」≒「Are you married?(結婚していますか?)」だったのだ。英語圏において「family」とは、自分と配偶者(と子供)を指すのだ、ということを知った。そしてビジネスシーンでの自己紹介で必ずこの質問が出ることから、「結婚している(家庭を持っている)」ことが、社会人としては当たり前で、仕事上でアドバンテージとして働くことも、逆に結婚していないことで、どんなに仕事を頑張ったとしても信用が得られない可能性があることも突きつけられた。結婚していない自分に「失格」の烙印を押された気分だった。
というか、これに気付いてから3週間の間、この質問がでるたびに「No」と答え続けていたのだ。「家族はいますか?」「いません」と。どんなに英語の意味をわかっていても、脳内で日本語に変換され続けると、「私って家族いないんだ、ひとりぼっちか…」とものすごい孤独感に襲われた。家族欲しい=結婚したいって強く思った。

孤独から逃れたいだけ?

結婚って、この人と一緒に生きていきたいと思った人と生活を共にして、いいことも悪いこともあるけどそれを共有していくことだと思っていた、つもりだった。友人夫婦の結婚のきっかけで、「この先、恋愛感情とか性欲とかそういうものがなくなった後もこの人となら一緒にいられると思った。」という話を聞いたときはものすごく感銘を受けたし、そういう人に出会いたいとも思った。
でも本気で結婚したいと思った2回とも、孤独が嫌だから、というところに帰着している。寂しいのが嫌で、誰かと一緒にいられる手段として、結婚したいと思っていただけだったんじゃないか。もっと言うと、結婚すれば、社会的にもちゃんと認めてもらえるし、とかどこかで思ってないか。
社会的云々はともかく、孤独感って、結婚しないと解消できないものなんかじゃ、絶対にないよね?

「何がしたいかわからないと、選べない」

とりあえず「結婚したい」への執着は一旦横に置いておくことにしたい。
それをおいても、やはりパートナーは、「この人と一緒にいたい」と思える人は欲しいのだ。
今は特定のパートナーもいないわけで、じゃあどんな人と一緒に生きていきたい?ということを、ついでに考えておきたい。

前にMERUMOさんのブログにも書いてあったし、なぜか最近聞かれることが多いのだけど、「どんな人がタイプなの?」と聞かれて、すぐに答えられない。
自分が「どんな人と付き合いたいか、どういうパートナーシップを望んでいるか」が思い浮かばないのだ。これってやばくない?
このあたりまで書いたところで、5/5、MERUMOさんのZoomミーティングに参加した。その中で印象に残った言葉がタイトルにもしている、「何がしたいかわからないと、選べない」。

まさにその通りで、私は結婚したいだとか彼氏が欲しいだとか言いつつ、
「“どんな人と”“どんなパートナーシップを”形成したいか」に対して
ちゃんと考えられていない事に今更気づいた。

ということで、考えてみる。

どんな人と付き合いたいか、については、この3つが出てきた。
言葉としては出せていたのだけど、どういうことか、まではちゃんと言語化できていなかったな。

・賢い人

 勉強ができるとか学歴があるとかじゃなくて。賢い人は、仕事においても自分の立場とかやるべきことを理解できるし、視野を広く持って周りも巻き込んでうまく動かしていると思う。あと、賢い人はどんなことがあっても臨機応変に対応して、生き抜く力があると思う。

・言葉と行動の両方で愛情表現してくれる人(海外の男性のように)

これまでにお付き合いしていた人とは、ちょっと不安になったり喧嘩になったりした時に、「(何も言ってなかったけど)こう思ってたし、こうしようと思ってたんだよ」って言われることがあって、それに対して「そう思ってくれてたのに悪いこと言っちゃったな…」とか思って自己嫌悪になったりしていた。別れた後に、「いや、思ってたから何だよ、ちゃんと言ったりやったりしないとわからないだろ、なぜそれに対して申し訳ないとか思っていたんだ」と我に返ったのがきっかけ。「好き」とかそういうのも、言わなくても伝わるかもしれないけど、言葉で伝えられたらもっと嬉しい。ついでにハグしてくれるとさらに嬉しい。

・外見に気を遣える人

ナルシストであれ、というわけではない。
「人は見た目が9割」とはよく言ったもので、別にイケメンじゃなくても、相手を不快な気持ちにさせないようにしようとか、こういう風に見せたいからこういう格好をしてみようとか、仕事柄相手にこういう印象を与えたいからそう見える服装を研究しようとか、人に「見られる」ことも考えて外見を整えることは、大事なことじゃないかな、と思う。
今の仕事を始めた頃、上司に「マーケティングとか企画の仕事をしている以上、見た目を整えること、整える努力をすることは大事だ。多くの人に『いいな』と思ってもらえるようなコンテンツを作りたいという人間が自分の服装に1ミリも気を遣っていなかったり、健康が大事だというプロモーションをする人間が肥満体型だったりすると、それだけで説得力の面で劣る。」と言われたことが、かなり心に残っている。
外見だけ整えれば良いとは思わないけど、そういうところにまで気を遣えるって、自分のことだけじゃなくてちゃんと相手のことを考えられる人なんだな、という気がしている。

どんなパートナーシップを形成したいか、ということに関しては、
特別なことがなくても、お互いに自分を取り繕わずに日常をシェアしたい。
毎日、1日中一緒にいなくてもいい。朝昼晩どれか一食でも一緒にご飯を食べて、他愛もない話がしたい。今みたいに1日中一緒にいることになったとしたら、一緒にご飯食べて、その後はそれぞれ漫画読んだりゲームしてたり、それぞれの時間を過ごせるような、それを尊重できるような、でも一緒に何かするのも楽しいよね、みたいな。
昔、大好きだった先生に、「結婚は空気みたいな人とするのがいいよ」と言われたことがある。いつもそばにいて、常に意識することはなくても大事で、いなくなると困って、っていうことかなと考えると、その通りかもな、と思う。

「大事にされたい」人は、自分を大事にしているのか?

ここまで、言葉や行動で気持ちを伝えてくれる人がいいとか、取り繕わずに過ごしたいとか大仰に書いているけれど、これって結局「大事にされたい」のでは?と思い至った。

じゃあ、そもそも自分は自分を大事にできている?と考えると、
即答できる。全然できていない。

私はすぐに取り繕うし、気持ちをきちんと伝えられない。
「会いたい」と思っても「迷惑かも」と思って言えない。甘えることも、拒絶されるのが怖くてなかなかできない。
拒絶や否定をされると最後、「私はダメなんだ」と自己嫌悪に陥ってしまう。だから、拒絶されないように、否定されないように、言いたいこともやりたいことも我慢して飲み込む。大丈夫ぶって、強がってしまう。
でもどこかで認めて欲しくて褒めて欲しくて、でもそう思っている自分がみっともないような気がして、その気持ちは押し殺して、何でもない風を装って。
それでいて「何でわかってくれないの」だ。わかるわけがないだろう。

そういう面を見せて、こじらせている、面倒くさいと指摘されたこともある。その時も、存在を否定されたような気持ちになって、でもショックを受けている自分を見られてはいけないと思って、家で一人になってから号泣した。

完全に「動作(言ったこと、やったこと)」に対しての「今はできないよ」と言うNoを、自分の「存在」に対するNoだと捉えてしまっているのだ。
(おそらく、子供の頃にそういう叱られ方をして、トラウマになっているのだと思う。)

結局、ここにたどり着く

つまり、嫉妬も執着も我慢も、結局は「自分が自分を大切にできていない」ことから起こっているんじゃないか。

「自分が自分を大事にする」っていうのは、前の記事にも書いているけど
"I love me because I am me."なんじゃないかな、と思っている。

やってもいいし、やらなくてもいい。人がどう思うかじゃなくて、自分がどうしたいか、その気持ちのままに動けばいい。
できなかったから、私に価値がなくなるわけじゃない。
ある動作が拒絶されたとしても、私という存在が拒絶されたわけじゃない。
嫉妬とか執着とかしてしまうこともあるかもしれないけれど、「あ、私今嫉妬してる!」と、その事実をそのまま受け止める。それはそれでいいのだ。
「この人には甘えてもいい」じゃなくて、誰にだって甘えていい。
自分が感じたことは事実。正解とか不正解とかはない。そう感じたんだから、そうなの。


「人にどう思われるか不安」を乗り越えるために、そのままの自分も悪くないじゃん、いいじゃん!って思えるようになるために、こういったことを、もっと自分に刷り込んでいきたい。

おわりに

ワークの話が出た時、そんな感じのことならこの前書いたな、なんて思っていたけど、全然だった。ただそれっぽいことを、表面を撫でただけみたいなものだった。「まだ足りない、もっと考えなさいってことかな」とか思った私、なかなか勘が良い。全然足りてなかった。
そして、いざちゃんと向き合うと、負の感情が溢れ出てくるし、この期に及んでまだ取り繕おうとする私も出てくるし。正直、これ書くの、かなりキツかった。
でもこのコミュニティに入っていなかったら目を背けたままだったと思うので、良いきっかけをもらえたなと、感謝している。
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