museum : 2022/12/11


ずっと行くとか行かないとか行きたいとか言ってた東京都写真美術館に行ってきました。の話。

大体感想戦みたいなもの、自分の感性との向き合いの記録です。





美術館って流石に行ったことないことはないと思うんだけど……行ったことあるとしても小学生の頃とかだと思います。最悪行ったことないまである。

クソ田舎のゲームとドライブばっかり好きな家庭で育ったもので、特に3つ下の弟なんかはもう見事にゲーム以外何も興味ない外出たくない歩くの嫌いみたいな感性もへったくれもない野郎だったというのもあり、少なくとも思い出せる範囲に「美術館に行った」という鮮明な思い出がないのです。

その上自分の芸術的感性に全くと言っていいほど自信がなく、「芸術を鑑賞したら何か自分の思考の糧として持ち帰らなければならない」みたいなご立派なお気持ちだけすくすくと育った結果、「自分みたいな教養の貧相な人間が行っても仕方のない場所」として美術館を敬遠すること5,6年。


何かの拍子に写真美術館という施設の存在を知り、写真表現に関心がある受け手としても写真を撮る一表現者としても興味を持っていました。

主題が写真にあるのであれば多少何か掴めるんじゃないか、自分の感性について考え向き合う機会が増えた今なら何か掴めるんじゃないか、と思っていて、ついに今日フォロワーと展示を見に行ってきた、の記録です。



見るは触れる

5名の作家による作品展示。

ひとつの展示、全て「写真」が軸にある表現なのに感じ取れるもの……これは感情、とは違うような気もするんだけど、その色や質感が全然違う。


1. 水木塁

ざらついたデカい写真、謎のラベルとかが写っていて、作品資料を読むに国際郵便物のラベルなどのよう。

作家の方はスケボー屋さんらしかった。

僕にとっての「スケートボーディング」とは、(中略)「解釈(もしくは誤訳)の世界」と繋がっている。

わかったようなわからないような気になっている。
本来は「スケボーのためのハードル」ではない公園の柵とかをスケボー屋さんは「飛び越えるもの」として扱う、これが「解釈」であり「誤訳」。

作者の主張はこの先にも続くのだけど、そこを読み解くだけの力がわたしには備わっていないらしい。



2. 澤田華

作者の主張はざっくり言うとこういう風、だと受け取った。

「人がものの意味を理解しようとするとき、それは受け手の知識や経験から想像によってさも自然なように導かれる。普段見過ごすような日常の些細な事象に目を向け、足を止め、目を凝らすことでその作用を紐解けないだろうか」


どこかで見聞きしたことのあるような感情で、多分それは自分の中のどこかだったな……と考えながら展示を見ていたけど思い出せなかった。

一緒にいたフォロワーもこの説明を読んでわたしの日頃の発言を思い出したらしい。


『わかる』と『思い込む』は部分的に似ている、みたいな一文が印象的だった。

「ふとした瞬間に耳を澄まして作品にして切り出す」という行為の産物として通行人が写っていたりして、それを作品にされる側の気持ちって何なの?と思った。
糾弾したいわけではない、うまく言えない。


2本の映像作品が一緒に展示されていた。どちらも「画面の中に画面がある」という構図のものだったが、これらに関しては純粋に「なるほど、そういう表現方法があるのか」という感が強かったな。

映像作品の鑑賞時のメモに「受け手として作品と一体化する感覚」と残されていて、これって何を思って書いたんだったかと思い出したけど、映像作品に入っている環境音と自分の立てる音、他のお客さんの小さな話し声、それらが混ざってどこまでが作品でどこからが受け手なのか境界線を引き損ねた、という感情だったことを思い出した。



写真をうつしたフィルムをうつしたフィルムをうつした作品。

ツイッターで見かけた「思考の再生産」という言葉を思い出した。「自分の思考結果があり、それに対してまた思考し、その結果があり、それに対して……」を繰り返す行為に対するとある人の言語化です。

なんとなくそういう風だと思った。

というか動画にしても写真にしても、言葉を借りるなら「表現の再生産」みたいなもの、それを何かひとつ表現の軸にしている人なのかな。何故なのかまで、汲み取れる頭が今のわたしには備わってない。



3. 多和田有希

こちらの作家さんは「写真を燃やすことで表現とする」という。


ワークショップ受講者の作品群。
「受講者それぞれが『燃やす写真』を持参し、燃やした灰で作った釉薬を使って焼いた壺」だそう。

写真は多くの人にとって残すために撮るものだと思うのに、何故それを燃やすのか、何を思って燃やすのか、それが再生産されたときどんな気持ちになるのか、何を思って『燃やす写真』を選ぶのか、何も理解が至らない。



海の写真の「泡以外の水の部分」だけを作者の母親と燃やしたらしい。それを作者は「母との対話」と表現していた。対話って何なん?

場内に透明な糸で吊り下げられた海の写真たちは自然に重力と揺れていて、海みたいだなと思った。

海に映る自分の影と、燃やされてできた無の先にある“ここ”が不思議だった。何が?と訊かれると説明できないけど、これも一種の「自分がどこにいるのかわからなくなる」感覚かもしれない。
因数分解に挑戦したいが、やれる自信がない。



4. 永田康祐

Photoshopの「スポット修復ツール」によって“全てを修復された”ビル群。汚れを範囲選択して、その周囲の画像から汚れに隠された部分を推測して補完する、みたいなツール。

そうして全てが“補完”の産物になった写真は人が忘れることと思い出すことを繰り返して原型を失った“記憶”と等しいのではないか、という作品。


この展示はヘッドホンが用意されていて、お客さん全員がヘッドホンを付けて、同じタイミングで流れる同じ説明を聞きながら同じ作品を見ていた。

展示の鑑賞としては奇妙なほどの一体感があるのに、ヘッドホンを付けているせいで全員がそれぞれ隔絶された空間にいるようで、きっとみんな全然違うこと考えてもいて、不気味と言うのはちょっと乱暴だと思うけど……

鑑賞メモには「どういう体験なんだこれ」と書かれていた。


ある作品の説明中に、

「ストーリーの破綻したバラバラのコマ割り」のようなこれは「記憶空間の再現」であり「脳内で起こる観念の結び付き」である

という話題があった、というのが鑑賞メモに残っている。

これを聞いて何かを思ったから書き留めたはずだけど、まだどこが何に引っかかったのか精査しきれてない。



5. 岩井優

「洗浄・浄化」をテーマに制作をする写真家が震災の被曝地域で除染活動に取り組みながら制作された作品群。写真NGだったので写真がないです。


言葉を選ばないですが、この企画展の5人の作家の中で唯一「強い感情が自分の中で展開される」感覚があった。
その「強い感情」は完全に間違いなく「悪意」だったので目眩がした。


グラウンド・クレンジング・ガイド、という作品。
除染作業に携わる人向けの説明動画、の体をした表現、これがこの展示の中でもすごく、うん、異彩を放っていた、普通に気分が悪くなった。

動画内では軽快でポップなBGMと明るい女性のナレーションが流れていて、そこに明確な悪意の塊が乗っていて、説明したってどうしようもないので鑑賞メモをそのまま載せておきます。

グラウンドクレンジングガイド 怖 こんな気持ち悪いもの置くな 怖 何これ 音楽と声が キモ 怖
「多くの国民に、あなたは嫌われていることを自覚しましょう!」
は?怖 キモ 怖 怖 怖 怖 怖 何 キモ 怖

これは感情の再現?展開?“こういう感情”だったわけ?それを受け手の中で展開させて何がしたいんだ?


無数のスクリーンがドーム状に配置されたインスタレーション、スクリーンに当時撮られたのだろう空の映像が映っていて、ドーム内に入るとスクリーンに自分の影がはっきりと浮かぶようになっていた。

空の映像、時折誰かがレンズを覗いたり隠したりしにくるのが映る。

それがなんだか自分を見られているようで、自分が目隠しされているようで、もしくは自分の影が空を隠しているようで、なんとも不安を駆られてしまった。


何を思ってこの展示を企画展の最後に持ってきたんだろう。



野口里佳 不思議な力

今日見た企画展の中で一番「写真展」と言われてピンと来るタイプの展示。


「スリーチャンネルビデオ」なる形態の作品が展示されていて、なるほど、と思った。


一番目を引いたのが真っ暗な中で流されていた映像作品、どうやら異国らしい夜の街並みをバスの車窓から映したもので、はっきりしたものは何も見えないほど曇ってたり暗かったりするんだけど、ただとにかく光の色数が多くて、TKがヨーロッパで撮って帰る夜景写真に似たものを感じた……というか、「海外の夜景ってなんでこんなに色数が多いんだろうな」と思った。

考えてみたらマレーシアに留学してたときに見た夜景もやたら色数が多くて賑やかだったような覚えがある。日本の夜景が整いすぎなんだろうかね。

鮮やかとかいう感じでなくて、色数が多い、というのが一番しっくりきている。雑然としている。わたしが透明水彩で絵を描くときのわけのわからなさと似ている気がします。

後々作品紹介を見たらドイツ・ベルリンにて撮影、とのことだったのでわたしの感じた既視感は正しかった気がする。


この展示に限らずだけど、「写真を撮る人」が「動画を撮ること」って意外と多いんだなと思ったりする。
わたしは写真を撮るけど動画を撮ることにはあまり興味が無いので少し意外に思った。

「写真で残すこと」と「動画で残すこと」って何が同じで何が違うんだろう?

写真で撮るのが「一瞬」なら動画で撮るのは何?動画って何なんだろう。


展示の最後にはレスキュー隊の訓練の様子を映した動画が展示されていた。

どういう感情でそれを撮って作品としたのか一切理解できなかったけど、明らかに理解を超えた身体能力に対して「人間ってこんな風になれるんだ」と思って、この感情には覚えがあるなと思ったんだけど、ftH8札幌で女王蜂のライブを見たときの「生きた人間がこんな風になっていいんだ」っていう自分のツイートだった。



星野道夫 悠久の時を旅する

自分は動物が好きじゃないし、動物写真を見て何か思えるのかなと思ってたけど、意外といろいろメモしてたし面白かった。


展示はじめに掲示されていた文章に「思索は深まっていき、その旅は生涯終わることはありませんでした」とあった。なんとなく共感した。


写真と一緒に展示されていた、初めてアラスカに渡るにあたって現地の村長に出した手紙に“I close this letter”って表現が使われていた。「手紙はこれで以上です」みたいなことなんだけど、良い英語だなと思った。


鑑賞メモに「深い蒼、鈍い灰色、オレンジ」とだけ書かれていて何も読み取れない、絵の具のことでも考えたのかな。

アラスカでの1枚に可愛らしいピンクの夕焼けが写っていて、わたしはこれを見て真っ先に「可愛らしいピンクの夕焼けだなあ」と思ったんだけど、よく考えたらピンクだと焼けてはない気がした。

“夕焼け”という言葉は実はすごく地域や文化への依存性の高い表現なんだな。


「ひとつの人生を降りてしまった者がもつ、ある優しさ」
「気の遠くなるような水の輪廻」

きれいな言葉がたくさん並んでいて、たくさん言葉を読んだ。
わたしは写真表現が好きだけど、多分同じぐらい言語表現が好きな気がする。ただ別に、というか全然、読書家ではないので、そこには「言語表現が好き」とかでは表せないもう少し「好き」の核が残っていると思う。

これは多分、ここ最近わたしが頻りに話題に上げている「感情再現度の高い表現」だとか「感情の展開」だとかそういうものに近い。


展示中に、「“未踏”を追いかけてきた人がその限界に気付いて始める“新しい旅”」みたいな表現があって、その心が知りたくなった。

未踏の限界は……わたしは見たくないけどな、と思って、ちょっとなんだろう、「未踏」を食べ尽くしたあとでまだ見たいものを持てることに対する羨ましさが半分、「未踏」を追いかけてきた人が「未踏」以外に興奮するということに対する失望感?裏切られたような感じが半分、みたいな気持ちだった。


展示の最後にはとある集落で歓迎された際の写真が飾られていて、
「私たちのために1頭のレインディアを殺してくれた」
って文章が添えられていた。良いとか悪いとかっていうより、すごい日本語だなと思った。





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