岡田武史の「批判」にまつわる発言の彼是

2022年3月24日木曜、サッカー男子日本代表(通称A代表)が本年2022年秋にカタールで行われるワールドカップ出場を決めた。

アジア最終予選では冒頭からつまづいたこともあり、内容的には到底、国内サッカーファンを満足させるクオリティに届かない試合が多かったが、なにはともあれ、今回もワールドカップ出場を果たしたことは大変喜ばしいし、誠にめでたい。

ところで、DAZN中継の解説者・岡田武史元監督の発言が非常に話題となっている。たとえば、以下のように取り上げられている。

一部、もともとの発言を補足しているアカウントもあるが、

概ね、インパクトの強い「批判される人は成長する。批判する人は成長しない」という箇所を切り取っているアカウントが多い。

まず、私もリアルタイムで視聴していて、なかなか名言の趣がある、とは思った。一方できっと誤解されて伝わるのだろうな、とも。

結論を先に述べておくと、このような切り取りを是とする人たちと所属組織は概ね、将来性に乏しいのではないかと私は考える。

もともとの岡田武史元監督の真意はというと、

成長するときは、やはり困難や失敗の後なんですよ。批判されるのは、成長させてくれるんですよ。でも、おもしろいことに、批判する人は成長しない。だから、森保に言ったんだけど。自分の成長をなげうってまで、その人は自分を成長させてくれる、ありがたいことなんだと。

日刊スポーツ【W杯予選】岡田武史氏、森保監督とのやりとり明かす「批判されるのは、成長させてくれる」

要するに「成長は困難や失敗を伴う」「批判はありがたい」に尽きる。同じ代表監督を務める森保氏に対して同情の念を込めて「腹が立つだろうけど、ありがたいと思って成長しろ」というアドバイスをした、という話だ。

ただし、さらに冷静かつ客観的に考えれば、岡田氏のいう「批判する人は成長しない」とは決して断言できないことにも思い至る。

なぜなら、批判する人は批判そのものが目的だったり、よほどの誹謗中傷でもない限り、批判する人なりに現状を分析し、最善を考えたうえで指摘するだろう。少なくとも、私の場合はそうだ。これらは自らが否定された場合の思考トレーニングであり、成長に繋がるかどうかは個々人の努力によるし、岡田氏が批判者のその後の成長を精査した形跡もない。

あるいは、立場にもよるが、批判者は自らが批判した内容の失敗をそもそも冒していない(事前に回避して成功している)という仮説も成り立つ。この場合、たしかにさらなる成長は見込めないだろうが、かといって衰退や後退に繋がるとも言い切れない。そもそも挑戦していない場合もありうるが、それは確かに成長も見込めない点で岡田氏の指摘するとおりとなりうる。

ところで、世界的に成功したアスリート、少なくともサッカー選手や元サッカー選手をみてみると、彼らは概ね、批判そのものには非常に寛容である(もちろん本人が感情的に反発することは当然だろうが)。

たとえば、南アフリカW杯に出場・活躍し、日本人サッカー選手としておそらくもっとも長きにわたって海外でプレーした部類に入る元日本代表の松井大輔氏は次のように述べている。

「まあ批判はね、批判じゃないんですよ。サッカーを見て、みんなで話すこと、意見を交換することは大事だと思うんですよね」

「批判はね、批判じゃないんですよ」松井大輔が日本代表を巡る評価の声に持論! 逆風に晒される長友には…

彼は名門・鹿児島実業でエースナンバー10を背負って全国大会でも活躍し、京都パープルサンガ(当時)でも同様に背番号10で天皇杯優勝を勝ち取ったうえ、その後はフランスの当時リーグドゥ(2部)だったル・マンに移籍して活躍し、以降長きに渡って海外リーグを舞台に活躍してきた。

選手としてのプレー時間を比較すれば、もしかすると本田圭佑よりも長いのではないだろうか。

まず、彼が2010年の南アフリカ大会で活躍できたのは、長きにわたってフランスでプレーした経験が大きい。フランスリーグは基本的に植民地時代の影響からアフリカ系選手が多い。

圧倒的にフィジカルで不利な状況下、ピッチコンディションもJリーグよりはるかに劣る異国の地で活躍し続けるのはサッカーの才能だけでなく、相当な知性と精神力が必要だ。

さらに、アジア最終予選を通して終始、批判の的となった長友佑都選手も、批判に批判で返すような言動は一切していないことを思い出したい。むしろ彼は「僕は批判されればされるほど燃えてくるタイプ」と述べている。

サッカーは「基本、ボールを手で扱ってはいけない」という単純明快なルールのスポーツだからこそ、世界的に熱狂的なファンが広がっているわけだが、その熱狂度合いは海外と日本とで著しく異なる。

海外のコアなサポーターを憧憬する国内ファンも一部にはいるが、かつてイングランドで「フーリガン」が問題視されたり、南米では頻繁に暴動が起きることからわかるように、サッカーの観戦は労働階級の憂さ晴らしという側面が根強くあり、暴力的なサポーターも少なくはない。

どこで誰が言っていたか忘れたが、経験談で、海外でプレーしたある日本人選手は負けた試合のあとにクラブハウスの駐車場に置いていた愛車を汚されたが、勝った試合のあとはピカピカに磨かれていた、というエピソードを語っているのを耳にしたことがある。

社会的地位とは無関係に、基本的に欧米では言うべきときは明確に、はっきりと表現しなければ己の意志や意見がないものと見做されるようだ。これは多くの海外在住者が述べており、検証の必要もないだろう。

日本では不思議と一部にとどまらず、批判を悪と看做すような風潮がいまだにあるが、そうした人々、それらに同調する人々は実年齢とは関係なく、本当に精神年齢が著しく低い、と思う。

個人やグループ、その内外を問わず、基本的に批判とは成長の契機である。無論、批判が正しいこともあれば的はずれなこともある。ただ、批判の自由があるということは、多様な意見や立場を尊重していることと表裏一体だ。

批判を悪や攻撃と見做すのは、私にはいかにも近代日本人的で幼稚な自我、全体主義に与する脆弱な自己に由来するとしか考えられない。時間の経過とともに価値観がコロコロと変わる現実社会において、そういった組織やチームはいっときは調子が良くても継続的な成長と成功は到底不可能だろう。

冒頭で引用したが、大手メディアで編集長を歴任し、自らも起業して事業を立ち上げたばかりの佐々木某氏に対しては、なにをかいわんや、としかコメントのしようがない。

ましてや、サッカー後進国と評される日本においては欧米と対等以上にあろうとすることを妨げる害でしかない。サッカーに限らず、日本や日本人が国際社会の一員やリーダーとして振る舞うことへの否定でしかない。

岡田氏の発言を「批判される人は成長する。批判する人は成長しない」と切り取るに留まることは個人の自由の範疇だ。しかしながら、賢く考えるのであれば、むしろ批判をありがたいと捉えられるメンタリティをこそ、フォーカスするべきだろう。

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