『さよなら絵梨』藤本タツキ

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*可能な限りネタバレなしで書いております。ただ、全くの前情報なしで作品を楽しみたい方は是非先に作品を読んでからまたいらしてください。読み切り漫画ですので、一気に読めちゃいます。


一言感想

まるで映画を観ているかのような漫画

簡単な作品紹介

集英社「週刊少年ジャンプ」にて連載していた『チェンソーマン』作者による、200Pの新作読み切り漫画。誕生日にスマホをもらった主人公・優太が、母親にとあるお願いをされる。病弱の母親を動画で撮影して欲しいというものだった。それは福音か呪いか。母を撮影した映画は結果的に、彼ととある少女の出会いと物語のきっかけとなる。

作品感想

初めての作品感想を書くにあたってどの作品について書こうかと悩んだが、ちょうど今日ジャンプ+にて藤本タツキ先生の新作が出たので、『さよなら絵梨』を選んだ。
元々『チェンソーマン』と『ルックバック』が大好きで、この新作が出ると聞いて待ちわびていた作品でもあり、一気に2回読んでしまった。
先に描き方、具体的にはコマ割りについて感じたことを書いてから、ストーリーについて感じたことを記そうと思う。

コマ割りについて

「一言感想」の方でも書いたが、本当に映画を観ているようだった。
もちろんそれはストーリーがそうさせたというのもあるだろうけど、コマ割りというのも一つの要因だ。

先に書いたように、この作品はジャンプ+にて公開されており、私自身ジャンプ+のアプリ、つまりスマホで読んだ。
そんな縦長画面でコマのほとんどは横長であり、それこそまるで映画のスクリーンを見ているようだ。
スマホという画面を見ながら読んだということもあって、そういった効果があったのかもしれない。

また、それら横長のコマ以外にも正四角形のコマやページ1つ使う縦長のもの、見開きのコマもある。
この漫画において特殊なコマであるこれらは、通常の横長コマによりさらに引き立ち、ただでさえインパクトのある絵にさらなる力を加える。

そんな特殊なコマのなかでも特に好きなものの一つは、177-178Pにある見開きのものだ。
ネタバレになるため内容については伏せるが、このコマの構図が非常に面白い。
具体的に構図だけ言うと、177Pで主人公は左を向いており、その見ているものは177pでは一切見えない。
そして178pへとスワイプすると、主人公が見たものが露になる、といった構図だ。

通常見開きの絵はどうしても間、本で言うつなぎめの部分を跨ぐ部分がある。
実際、この作品で登場する他の見開き絵はどうしてもスマホを縦にするよりも、横にした方が見やすい。
つまり多くの場合では、このつなぎめはどうしても弊害の一つになってしまう。
しかし、この177-178Pにおいては、この跨がれている絵は背景の壁と床以外一切ない、そのため見開きのデメリットが非常に少ない。
むしろ、この構図はつまぎめ、スワイプしないといけない縦長の画面を利用している。
見開きでありながらも、分けてみられることで真価が発揮されるようなコマだ。

スワイプを挟むことにより、177Pの主人公と同じような気持ちで、178Pを迎えられる。
もちろんアプリで読むにあたって、スマホを横にして通常の紙媒体のように読むことは出来るが、この見開きの絵は明らかに縦長で読まれることを想定して描かれているとしか思えない。

ストーリーについて

*予め、ネタバレをするつもりはないので、ストーリーをできるだけ伏せながら感じたことを感じたまま書こうと思う。

前作の『ルックバック』もそうだったが、この『さよなら絵梨』はものすごくクリエイターに刺さる作品のように思えた。
具体的な例で言うと、99ページ最後のコマにあるセリフなんかは、一時少し炎上し結果一部改変された『ルックバック』を思い出された。

全体的な感想で言うと、創作物の力と無力さを思い出された。
ここからはストーリーについては深く言及しないため、今まで以上に私の独り言のようになってしまうが許して欲しい。

この作品で改めて思ったが、創作物は必ずしも作者の想定した反応を生まない。
そういう時に生まれるのは、作者の中に残る深い傷。
残念ながらこれは決して珍しいことではなく、むしろよくあることだと思う。
そんな傷を何度も何度も負いながら、創り続ける。

だからこそ、作品が受け取り手にしっかり届いたとき、それは何にも代えがたい感覚を残す。
私自身、一度だけそういった経験があるからこそ、創作で生きたいと思った節がある。

しかし、残念ながらそんな喜びだけでは終わらない。
たとえ狙った反応が生まれたとしても、それでも作者の中にある種の傷が残る。
その傷は様々なものからくる。
それは色んな悔しさから来ることもあるし、ただただ心血注いで踏み込んだ題材から来る傷もある。
そんな感覚を、この作品を読んで思い出された。

創作家、クリエイターというのは、きっとそんな様々な傷跡を抱えながら、それでも描き続けるものなのだと思う。
それはきっと、そういった作品たちは作者と同じように、受け取り手にも、ある種傷跡のようなものを残すからなのかもしれない。
いや、これはまだ駆け出しの自分に言う資格のないものなのかもしれない。
でも少なくとも、この作品で改めて、1人のクリエイターとしてそうしていこうと思う。
出来れば、その残す傷跡は素敵なものであると願いながら。

おわり

ここまで稚拙な文章を読んで頂き誠にありがとうございます。
藤本タツキ先生の作品総じてに対して思うことですが、この人の作品は人を、生きることを、そして現実を「美化しない」と思います。

以前同じグループで活動している仲間と『チェンソーマン』の話をしていた時、似たような話になりました。
他のいわゆる正道なジャンプバトル漫画、当時は『呪術廻戦』を例として挙げてましたが、こういった漫画はある種「日常の中の異常」といった話をしてました。
『呪術廻戦』なんかは現代日本で普通の人には見えない敵と主人公たちが戦う、まさに「日常の中の異常」です。
しかし、『チェンソーマン』はどちらかというと、「異常の中の日常」です。
狂った世の中をある種忠実に、余計な美化なしにリアルを描くような、そんな印象を終始受けました。
『さよなら絵梨』は現代日本が舞台ですが、この余計に「美化しない」という点はこの作品にも表れていると思います。
そしてそれは同様に、私が藤本タツキ先生の作品が好きな理由の一つでもあると思います。

改めましてここまで読んで頂きありがとうございます。
もしまだ『さよなら絵梨』を読んでいませんでしたら、本当に一気に読めてしまいますので是非読んでみてください。

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