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ありのままでいること

「後ろの席に座ってても、全く物音が聞こえてこないんだよね」

社会人になって、初めて参加した会社の飲み会で、いつも背向かいの席に座って仕事をしている管理職のおじさんから、こんなことを言われた。

私があまりにも静かで、あまりにも喋らないから、いるかいないのかわからない、と言いたいらしい。

あ、まただ。もっと元気に、もっと饒舌に、何かを発しなきゃいけない。自分の静けさを指摘されるたびに、そういう暗黙の圧力を感じとっていた。

大学生のころ、私は、あまりにも喋らない自分のことを変えたいと思った。

気の合う仲間の前では、ハキハキと喋ることを心掛けて、無口で口下手な自分を隠して、気づかれないように明るく振る舞っていた。

でも、そういう仮面をつけた自分は、どこか不自然な演技をしていて、長くは続かない。ふとした瞬間に、無口になる。すらすら言葉が出てこなくなる。

取り繕われた明るさの中に、ときおり暗い影がさす。

そういう瞬間は、自分でわかるから、あ、いま暗い部分が出てきちゃった、相手は不快に思わないかな、などと話しながら考えたりして。

本当の自分の姿を認められない、不自然な状態のまま、私は、大学生活を終えて、社会人になった。

石の上にも三年、という言葉があるけれど、社会人になってからの三年間は、我ながら、がんばっていたと思う。

仕事をがんばって認められたとか、成果をあげたということではなく、がんばって喋っていたということ。

日々鳴り響く電話をとって対応をしたり、仕事やお付き合いの席で上司や同僚とコミュニケーションをとったり。

それでも、私はときおり暗い影のさしてしまう自分を変えられなかった。はたから見ると、あまりに静かで、あまりに喋らないように映っていたのかもしれない。

三年目になっても、「遠慮しないで喋っていいんだよ」などと言われて、あ、まただ、を繰り返していた。

そうして、あるときふっと、自分を取り繕うことに疲れてしまって、心の中で堰き止めていた何かが急に溢れ出して、心身が壊れた。

私にとって、「遠慮しない」状態というのは、無理をして喋らない状態のことだ。

仕事を休んでいる間は、家族以外の人たちとの接触を絶って、ほとんど喋らなかった。ただ、眠って眠って眠って、たまに泣いて、また眠って。

バタンッ!と閉じられた心の扉は、なかなか開かなかった。

仕事復帰してから、私はありのままの姿で会社にいるようになった。

仕事に関係のないことはほとんど喋らない。取り繕って明るく元気に振る舞わない。ただ、自然に、ありのままの私で、そこにいる。

多少甘えているのかもしれないけど、ありのままでも大丈夫だ。自分のことを許せないのは自分で、他人は、私の静けさなんて、そんなに気にしていない。

人間の言葉は、私にとって、うるさすぎるのかもしれない。いまはただ、しんと静かに、日々が過ぎてゆけばいいと思う。

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