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罪とは誰が裁くのか。

きょう、『プロミシング・ヤング・ウーマン』という映画を観た。

これがとても良作で、間違いなく今年のベスト5に入りそうな映画だった。でも、見る人によってはとても苦々しい映画になるだろう。

以下はネタバレを多分に含む内容となるので、鑑賞済みの方のみ読んでいただけたらと思う。この映画は、間違いなくネタバレなし、無防備な状態でぶつかったほうがいい類の映画なのだ。

なお、以下の文章では、この映画の重要なファクターである女性差別及びフェミニズムという観点からの話はほとんどない。避けて通れないテーマではあるのだけれど、私の文章力の乏しさゆえにテーマを分けて書くことしかできなかった。そういった話が読みたくてクリックしてくださった方には大変申し訳ない。





友人に誘ってもらってこの映画を観ることを決めたとき、私は前情報をほとんど入れていなかった。「プロミシング・ヤング・ウーマン」、つまり前途有望な若い女性。ツイッターで少しだけ見かけた画像では、キュートな容姿の女性が、キャンディをくわえてこちらを眺めていたり、交差点の真ん中に仁王立ちしていたりする。あっ、これは、「アイ・フィール・プリティ」とか、「チャーリーズ・エンジェル」みたいな、キラキラして、ワイルドで、楽しくて、元気になれちゃうような、いわゆるガールズ・ムービーなのかな?じゃなきゃ「レディ・バード」みたいな、等身大の成長物語かしらん。いずれにせよ好きだわ。絶対いい映画体験になるに違いないわね。などと思いながら映画館に行ったのだが…。結果、エンドロールまで硬直しっぱなしだった。やけにひりひり喉がかわいて、砂を噛むような居心地の悪さをジンジャーエールで流し込み続けた。これは、好きか・嫌いか、などといった次元の映画ではなかった。知ってしまったからには、一度正座してじっくり考えなければならない映画なのだ。

今世間を賑わしている問題のひとつに、五輪関係者の過去のいじめや、ホロコーストをネタにしたジョークがあり、どう向き合うべきか、私も悩んでいたところだった。前者のいじめ問題に関しては情状酌量の余地はないと考えているが、後者については、私自身、ファンを自称できるほどではないが、彼らのコントを好意的に楽しんでいた人間だった。例のコントは私は見たことがなかったのだが、公開当時にあのコントを見ていたとして、問題視できたのかと言われれば正直自信がない。そして、彼は2,000年代半ば以降は、「人を傷つける笑い」は作らないという理念で活動してきたとも聞いている。だから余計に割り切れず、表立って批判することもできず、かといって擁護する程の度胸も持たず、「割り切れないし、味方することもできないし、どっちつかずは意味がないし、なんて自分の意見の無い人間なんだ私は…」などとぐるぐる考えていた。彼らは五輪を辞任・または解任されることで、この件に関しては、少なくとも公には言及されなくなったわけだけれど、本質的に彼らの罪が消えたのかと言われれば、決してそうではない。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、およそ10年前に起こったレイプ事件にかかわる加害者たちの罪を暴き、社会的、法的に処していくストーリーだ。主人公のキャシーは、暴行を受けて自死を選んでしまった親友、ニーナの敵討ちのため、彼らに報いを受けさせる。この過程を見ていて、私はこう思った。

「ニーナは確かに気の毒だし、加害者は屑だ。でも、キャシーに彼らを裁く権利はあるのだろうか?」

キャシーは確かにニーナの親友で、被害に遭ったニーナの世話をするために一緒に大学を中退までした。そして今もそれを過去にできずにいる。加害者たちを裁けるとしたら、キャシー以外にはいないのかもしれない。それでも、キャシーだってただの人間だ。天におわす神様でもなければ、裁判官でもない。検事も弁護士も裁判員もいない。民主主義的な多数決ですらない。キャシーがやっていることは、角度を変えればただの脅迫でしかない。

マディソンが心を打ち砕かれ、学長が脅され、弁護士が土下座して謝る。そんなシーンを見ながら、爽快感すら感じながら、それでも居心地が悪かった。だって、これはリンチだ。客観性のない、暴力的なリンチだ。でも、もとはと言えば彼らが裁かれなかったこと自体がおかしくて。どうすればいいの?どんな気持ちになればいいの?キャシーを正義のヒーローとして称えるなんて、私にはとてもできない。それは間違っている気がする。これがエンターテインメント?なんの冗談なんだ。

情緒をぐちゃぐちゃにされながら見ていたら、クライマックスでなんとキャシーが死んでしまった。レイプの主犯に枕を押し付けられて、あっけなく窒息してしまった。冗談だよね、そのうち生き返るんでしょう、そして笑って男たちを警察に突き出すんでしょう、そんな私の願いもむなしく、彼女の遺体は男たちによって焼かれ、灰になってしまった。こんなむごい話があるものかよ。よりによって一番報いを受けるべきこの男がお咎めなしで生き残るなんて。そう絶望していたら、あのラストシーン。そうか、初めからキャシーは死ににいったのか。

そこで、やっと腑に落ちた。これは裁きなんかではなく、ただの復讐でしかなかったのだ。裁きとは本来、立場が上の存在から言い渡されるものだ。キャシーは、頭のきれる女性だけれど、聖人君子ではないし、並外れた腕力があるわけでもない。社会的地位があるわけでも、神の啓示をうけたわけでもない。ただの人間で、かよわい女性だ。そんな彼女が復讐しようと思ったら、それはもう自分の命を投げ出す覚悟をもって初めてできることなのだ。

思えば、キャシーはどう見ても健全な精神状態とは言えなかった。夜な夜なクラブでお持ち帰り男を追い詰める。交差点の真ん中で眠り込み、それを下卑た言葉で批判する男の車をバールで叩き壊す。向こう見ずで、いつ怪我をしてもおかしくない。生きていたい人間には、とてもできない行為ばかりだ。ニーナが死んだとき、キャシーの時間も止まったのだろう。ただ息をしているだけの、失うもののない人間がキャシーだったのだ。ライアンと恋に落ちたことで、一度は自分の人生を歩んでいけそうだった。けれど一筋の光明も、ライアンがかつてのおぞましい事件に加担していたことが明らかになり、消え失せてしまう。10年前の喪失で動けなくなったキャシーにとって、ニーナ以来の大切な存在を『得て』から改めて『失う』プロセスは、この世へのかすかな未練を失くすには十分だったのかもしれない。『失うもののない人間』の恐ろしさは、多くの人が認めるところだ。彼らには守るものがなく、自分がどこまで堕ちようが、死んでしまおうが、どうでもいい。だから他人の目なんて気にしないし、自分の欲望を満たすためだけに行動できる。その結果、最悪の場合、多くの人の命を奪ったりするような悲劇を起こしかねない。キャシーの場合、それが復讐という目的に全振りされただけだ。誰かを裁くなんて、キャシーは最初から考えていなかっただろう。

そしてこの復讐劇を、私たちは「スカッとする」と愉しむ。キャシーの目的に共感できる。キャシーを応援したくなる。ニーナを慰み者にした屑に、少しでも惨めな思いをさせたくてたまらなくなる。私たち大衆は、守るものがあるから思い切ったことはできない。けれど心の奥底で、キャシーのように憎い相手をとっちめてくれる存在を欲している。個人的には何もできないのに、その思いが束になれば、憎い相手を追い詰めることもある。そういう意味で、キャシーは「擬人化された大衆」だと言えるかもしれない。

前述した五輪関係者のスキャンダルについて考えていたこのタイミングでこの映画を観られて本当によかった。20年以上も前のスキャンダルが、今になって彼らのキャリアを妨げ、社会的地位を失墜させる。それは正当な処遇である一方、「罪はいつまで罪なのか」「いつになったら、何をしたら雪がれるのか」。そんな私の疑問に対するキャシー流の答えはきっとこうだ。「私『は』許す」、または「私『は』許さない」。彼らを本当の意味で裁くことは、被害者を除いてはおそらく誰にもできないし、結局のところ、個々人が「許す」「許さない」の線引きを行うことしかできないのではないかと思う。その個々の考えがより集まって大衆の総意となるのだし、彼らの今後によってその総意はいくらでも翻る。罰金や懲役などの目に見える罰がなかったとしても、大衆によって復讐は行われ続ける。そしてこれは決して他人事ではない。

映画に出てくるマディソンという女性は、ただ被害を受けたニーナを信じなかった。そして周囲に同調して面白がった。これは、例えばいじめを止めずに傍観しているクラスメイトと同じ立場だろう。キャシーは彼女にもきっちり復讐する。私はこれまで30年以上生きてきて、絶対に誰も傷つけず、間違ったことをせず、道理に叶う行動だけをしてきただろうか。長いものに巻かれず、傷ついている人を放置せず、悪いものに悪いと言い、ちらりと見えた悪事を告発してきただろうか。正直、自信がない。そういう意味で、私もマディソンだ。貴方は、自分はマディソンでも、ライアンでも、学長でもないと言い切れるだろうか?

10年ちかく前に起こったレイプ事件について、加害者たちは一様に、「昔のことだ」「ガキだったんだ」「当時はよくあることだったんだ」と過去のことにしようとする。けれども過去は現在と地続きだ。フェイスブックに、友人のスマホの中に、そして自らの心の奥底に在り続ける。決してなかったことにはできない。私たちは、常に自問自答し、自責し、それでも少なくとも未来に正しくあれるように生きていかなければならないのだろう。

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