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夏の終わりと茄子のミイラ

9月も後半に差し掛かり、吹く風も秋めいてきた今日この頃だけれども、この夏のことで書き残しておきたいことが一つある。大したことではないのだけれど。


※タイトルの「ミイラ」は例えではないので、ものが朽ちていく描写が苦手な方はここで回れ右を。


あれは6月の半ば頃だったと思う。その朝、会社の最寄り駅の出口からすぐのところに、なすが落ちていた。

なす。なすび。夏野菜としておなじみの、煮物にしたり田楽にしたりするアレ。つやつやと光る黒い皮が美しく、ぽってりとみずみずしく育った、立派ななすが一つだけ落ちていた。決して広くはない道路の、側溝の蓋のうえに、たった今誰かが落としていったという風情であった。

その時私は、同僚と世間話をしながら歩いていて、ふと、そのなすが目に入ってきた。

「なすびが落ちてる」

「え?あ、ほんまや」

と、短い会話をしただけで、それきりだった。


それから2.3日が経った。あのなすはなくなってしまっていたので、落とし主が拾ったのだと思っていた。しかしその朝、いつものようにその道を通るとき、ふいに、すぐ近くの集合住宅のフェンスが目に留まった。波打った金網を金具で留めたような形状で、人間の腰くらいまでの高さ。公園の植え込みの外側なんかに使われているような、よくあるフェンスだ。

その上辺の金具のへこみの部分に、あのなすが置かれていることに、唐突に気付いたのだった。あの時私がなくなったと思っていたなすは、誰か親切な人の手によって、より目につきやすいところに移動させられていたらしい。けれども落とし主は見つけられなかったのか、それとも生鮮品だから諦めたのか、持って帰ることはなく、そのまま野ざらしになっていたらしい。

なすは、初日の時のつややかさが少し失われて、心なしか元気がないように見えた。


それからというもの、私はそのなすを、会社の行き帰りに観察するようになった。じっくり見るわけではない。ただ、なんとなく目が行ってしまうのだ。見るともなしに眺めて、そのまま通り過ぎる。

しばらくの間、なすに大きな変化はなかった。内部では何か起こっていたのかもしれないが、少なくとも外見はあまり変わらなかった。

大きな変化があったのは、7月に入ってからだった。黒い表皮に、茶色い斑点ができはじめたのだ。それはなすのおしりの、一番太いところから始まって、真ん中あたりにまで及んだ。だんだん斑点のひとつひとつが大きくなり、まだらもようになっていった。

またしばらくすると、次は表皮がしわしわになっていった。その頃には、実のみずみずしさはかなり抜けて、ボリュームが半分くらいになってしまっていた。夏の暑さと、天日干しにされている環境のせいで、腐敗しているというよりは干からびているようだ。

どんどんなすの様子は変わる。8月に入ると、なすが自らの重みに耐えられなくなってきた。このなす、横に長い形状のフェンスに対して、平行ではなく、上から見て十字を描くような形で置かれていた。接地面が少なく、なすが自分の固さでバランスをとっていたわけだ。しかし乾燥が進み、皮の張りがなくなったことで、フェンスに触れていない両端が垂れ下がり、そこに水分が溜まったように膨らんだ。まるで餓鬼の腹のようにそこだけ膨らんで、醜いぶつぶつができていた。なんだか見てはいけないものを見ているような気持ちになって、そっと目を逸らした。


「九相図(くそうず)」というものを知っているだろうか。

人間の遺体が野ざらしにされて、腐敗し、虫がたかり、鳥獣に食い荒らされ、骨となって土にかえるまでの様を9枚の絵で描いたもの。僧侶の色欲を押さえるために作られたものだという。目的が目的なので、遺体は美女であることが多い。死に顔すらも美しい絶世の美女が、ガスで膨らみ、肉が腐り落ち……。かなり壮絶なもので、あまり見ていて気分の良いものではない。ちなみに初めてこの絵の存在を知ったきっかけは、夢野久作「ドグラ・マグラ」を読んだ時だ。

このなすを見ていて、私はこの九相図を思い出した。もしかして、私は今まさに九相図を体験しているのではないか。人間どころか、小動物ですらなく、なすで。まだ、野菜で助かった。醜いだけで済んでいる。諸行無常、盛者必衰。ああ、何か悟りが開けそうだ。

地面から浮いているからか、虫が沸いている様子はない。ここまで悪くなったら、鳥も食べたりしないだろうし、このまま劣化が進んで、フェンスの頂点で引き千切れて、その下の草むらに落ちて土になるのだろうかと思った。

それからまた数日たった。

8月の容赦ない日差しに晒され続けた結果、どぷんと垂れ下がったおしりの水分までが抜けて、なすはまた平らに戻っていた。ちぎれるかと思っていたので意外だったが、ちぎれる前に乾燥が進んで重みがなくなったようだ。

完全にぺちゃんこで、黒と茶色が入り混じった板のようになっている。太陽の熱と風に晒され、水分が飛ばされて干からびたそれは、ミイラと呼んで差し支えないだろう。(古代エジプト人は馬鹿にするなと怒るかもしれないが。)なすのミイラは、知らなければこれがかつてみずみずしい野菜だったとは誰も思わないような、哀れな姿だった。

劣化は最終段階を迎えたようで、ここからもしばらく観察していたが、大きな変化はなかった。

そして、9月にさしかかったある日、茄子のミイラは忽然と姿を消していた。何かの拍子に落ちてしまったのか、だれか近所のひとが捨てたのか。

真相はわからないけれど、とにかくミイラはいなくなった。そして気付いたら、夏も終わっていた。


別に何かの象徴にしたいわけでも、何か学んだと言いたいわけでもない。ただ打ち棄てられた野菜が朽ちていくのをひと夏かけて見守っただけだ。ただ、なんとなく感慨深い気持ちになったので、本格的な秋を迎える前に、ここに書き残しておこうと、思ったのだった。



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