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新版「いっぱしの女」

最近読んで面白かった本。

氷室冴子と言えば、「なんて素敵にジャパネスク」を生み出した、忘れられない作家の一人だ。「ざ ちぇんじ!」も読んでみたいと思いながら、ここまで来てしまった。

中学生の頃、叔母から譲り受けたコバルト文庫は、当時の私にとってもレトロな装丁だったが、読み始めてみると一気に引き込まれた。平安の時代が舞台でありながら、まるで現代の普通の女の子のような感覚を持った主人公。ひどくまっすぐで、融通がきかなくて、全力で笑ったり泣いたりして、深く傷ついてしまう。その生き方は思春期の私の心の、とても深いところに刺さって、何度も何度も繰り返し読みふけったものだった。

そんな素晴らしい小説を世に出した氷室冴子が、30年程前に著したエッセイが復刊されたと聞いて、これは読まなければと思った。タイトルは「いっぱしの女」。

ジャパネスクは好きだったが、それ以外の氷室作品はあまり読んでいない。しいて言えば、図書館にあった「落窪物語」の現代語訳くらいだ。氷室冴子の文章を読むのがとても久しぶりになってしまったけれど、「いっぱしの女」を読み始めて、「ああ、これだなあ」と思った。これが個性ということなのだろう。流麗なようで、どこか斜に構えているようで、でも芯があって両脚でしっかり地面を踏みしめているような文章の書き方。一瞬で防御が解けるというか、心の一番もろいところをざっくり刺しに来る、私は勝手にそう感じている。

その、私が大好きな書き方でつづられているのは、現代の女性が抱えている感情とリンクするものばかりだった。言葉の選び方や、時事ネタなどは確かに時の流れを感じるものだが、そこさえ除けば、この令和3年に30歳の女性が書いたといわれてもほとんどわからないかもしれない。

結婚して変わってしまう友人との関係。属性が近くても決してわかりあえない他人。少女時代の終わりを感じた日。若さを小ばかにされるくやしさ。横行するセクハラ。ぶつけられた悪意に立ちすくむこと。好きな人がいたときの、何気ない幸せの記憶。それでもどうにかこうにか楽しく生きている。そんな、ある程度以上の年齢の女性なら、誰もが自分の身に置き換えられるような言葉の連続が、決してお涙ちょうだいではなく、淡々と、時にユーモアを交えながら続く。そうだ、私もそうだった、と、ページをめくるたびに昔の自分に想いを馳せる。

氷室冴子は、2008年に亡くなっている。このエッセイが世に出たのは1992年。「ジャパネスク」シリーズが終わった翌年だ。私が感銘を受けた小説を書いたひとも、私と同じ心の痛みや、切なさを抱えながら、あたたかいものに触れていたのだなあと思う。あの頃は、思春期の女の子として。そして今は、30を超えた「いっぱしの女」として。あたしもあんたといっしょよ。と、囁いてもらったような気がした。

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