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〈短編小説〉ヨシカワの話(前編)

この小説は
「【note創作大賞2024】スカートとズボンの話」のスピンオフ作品です。
「スカートとズボンの話」第1回とあらすじはこちら ↓


 雨が強くなってきた。
 翌朝に来る予報の台風が、もう接近している。リョウさんは、今日はもう閉めよう、と店の入口へ向かった。

 帰ろうとする俺に、タカヒロ、今日は泊まっていけよ、雨が強いから。とリョウさんは言った。
「大丈夫だよ、しばらく飲んでて。俺も飲みたいもん」

「ソウタは、今日はどうしてるんですか」

「今日は友達の家なんだよ。最近、おじいの所に行きたがらないんだよな」

 ソウタはリョウさんの息子で、中学生だ。俺がこのバー「BLUE OCEAN」に通い始めまもなく、リョウさんはシングルファーザーになった。
 おじいというのは、元妻であるマヤさんの父なのだろう。リョウさんは東京から来た人で、こっちに血縁者はいないのだ。

 ありがたいよな。こういう時預かってくれるの、とリョウさんはつぶやきながら、俺につまみを用意してくれた。

 ヨシカワ リョウイチロウ、というのが、リョウさんの名前だ。カウンターの向こうの壁に貼られた「食品衛生責任者」を見るとわかる。リョウは「良」と書くので、「名は体を表すんだよ」というのが、リョウさんの持ちネタだった。

 「ふふっ」
 リョウさんは急に笑い出した。どうしたんですか、と訝しむ俺に、最近よくこうやって、1人で笑ってんの、気持ち悪いよな、とつぶやいた。

「東京にいた頃のこと、最近よく思い出すんだ」


 そうなんですか、と相槌を打ちながら、俺の中で微かに緊張が走った。

 「BLUE OCEAN」に通いはじめた頃、まだ妻だったマヤさんは客の俺に、リョウに東京の話はするな、と言い聞かせたのだ。リョウは東京で壊されてきたんだ、東京のことを思い出させないでほしい、と。

 東京のブラック企業で心身を壊したリョウさんは、20年くらい前に、マヤさんの言葉を借りると「死人みたいな顔をして」、この島にやってきたそうだ。そんなリョウさんの「東京でのしんどい記憶は、あたしが全部消してやった」とマヤさんは豪語した。

 リョウさんは、マヤさんにしばらく「飼われていた」という。要は居候かヒモのような状態だったのだが、この「飼われていた」という表現を、リョウさんは好んで使っていた。
 リョウさんはその頃、あちこちの飲食店やアクティビティ業者をせっせと手伝い、島中に顔を広めた。やがてこの「BLUE OCEAN」をはじめたのだ。

 マヤさんはしかし、献身的な妻からは程遠かった。
 夜の仕事をしているマヤさんは、気が向いた時にしか家に帰らなかった。リョウさんもリョウさんでいつもフラフラと遊び歩いていたからお互い様だったのだが、マヤさんは、ソウタを産んでからも変わらなかった。
 リョウさんは最初から、シングルファーザーのようなものだった。挙句に別れたのだが、これがリョウさんからではなく、マヤさんからだと聞いて驚いた。マヤさんは、リョウさんと一人息子のソウタを、家から追い出したのだ。

 それでもリョウさんは、淡々としたものだった。何かというと「マヤは俺の命の恩人だから」と言うばかりで、マヤさんのことを悪く言うことはなかった。きっとマヤさんは、リョウさんに怪しい呪術でもかけて洗脳したにちがいない、と皆が噂していた。


「東京の、どんなことを思い出すんですか」

 リョウさんは笑って、女のこと、とあっさり答えた。

「幸せな話ですか?」

 リョウさんはニヤッとして頷いた。
「幸せっていうか、楽しい話。いや、変な話ばっかだな」

「聞きたいな」
俺はほっとして、そう答えた。



「昔つきあってた人をインスタで発見したんだ。けっこう前。昨年かな」

 有名人のインスタに写ってたんだよ、とリョウさんは言う。

「あの女の政治家の、いるだろ、強烈な感じでさ、今最も総理に近いとか言われてる」

「サトウアサミですか」
 ああそうそう、とリョウさんは頷いた。タカヒロはなんでもよく知ってるな、と言うが、彼女を知らない日本人はいない。

「いいよな、あの人。俺、気合の入った女好きなんだよ。マヤもそうだろ。まああいつは、方向性がちがうけどな。……で、あの人とさ、なんでか一緒に写ってたんだ。仕事のつながりなのかな。そこは全然、わかんないんだけど」

 そのつきあってた人がさ、といいかけて、リョウさんは一瞬止まった。

「華っていう名前だったんだ、華やかの華。いい名前だよな」



 華とは、高校の同級生だったんだよ。

 単筒とか複筒って、昔あったよな。なくなったのは、いつだっけ。この辺じゃ、誰も守っちゃいなかったけどな。東京では、皆けっこうきっちり守ってたんだよ。
 華は、複筒だった。クラスで1人だったんじゃないかな。だから、独特な存在感があったかもしれない。でも、だから好きってこともなかった。

 高校の間は、つきあってなかったんだ。話すこともそんなになかった。多分向こうは、なんとも思ってなかったんじゃないかな。でも俺は、華を好きになったんだ。
 そうなったきっかけがさ、笑えるんだよ。

 華の机の周りに何人か集まってわいわいしてて、俺は近くで、壁か窓かに寄っかかって、ボーっとしていた。なんとなく聞いてると、CDの歌詞カードを見ながら話してるんだ。

 その頃は、洋楽を聴くのがかっこよかった。今、全然聴かないよな。俺もだよ。まあ、ファッションみたいに聴いてるやつが多かった。

 洋楽の歌詞カードには、日本語版歌詞が一緒についてくるんだよな。華たちは、その日本語訳がおかしいとかなんとか、盛り上がってるんだ。正しく訳してないとか、そういうんじゃないよ。洋楽の日本語訳って、まじめに読むとおかしいのがけっこうあるんだよ。

 華が、それを読み上げはじめたんだ。
 そしたら、サビあたりで急に卑猥な内容になって、でもうっかり1,2節読んじゃった。エクスタシーが何とかって。なんか、エクスタシーだけ鮮明に覚えてるんだけどな。

 そこまで言って気づいて、なにこれ、って顔を伏せてさ。あれ、周りにいたの女子だけだったかな。男もいたのかな。男もいたなら、許しがたいよな。

 周りも笑ってて、華が顔をあげたんだ。真っ赤になってて。その時、そっちを見てた俺と目が合って、華が笑った。お前、どうせ今の聞いてたんだろ、みたいな顔で。
 それで、好きになっちゃった。


 そこまで黙って話を聞いていた俺は、え? とリョウさんに聞き返した。

「あはは。わかるか? 今の話のどこに、好きになるポイントがあったか」

「わかりません」

「タカヒロお前、それは俺に対する羞恥プレイだな」

 そう言われても、わからないものはわからない。

 まあ、自分から話しはじめたんだから仕方ねえな、とぶつぶつ言い、笑いをこらえながら、リョウさんはつづけた。

「卑猥な言葉と、真っ赤になった顔と、俺への視線、っていう3点セットで俺はもう、彼女との行為を想像したんだよ。それで好きになったんだよ」

 言うなりリョウさんは、こらえきれないように笑いだした。
「気持ち悪いだろ」

 俺は吹き出した。いかにもリョウさんらしいが、予想の上を行く下世話さだったのだ。

「ちゃんと、わかってるんだよ。そんなわけはないって。それがOKサインだとかマジで思っていたら、それは犯罪者の一歩手前だよ。そんなわけはないってちゃんと頭ではわかってるのに、脳はもう勘違いしてる。誤作動してるんだよな」


 リョウさんは俺のドリンクが無くなっているのに気づき、古酒クースーのボトルを出した。
「メニューに入れてないやつ。サービスだよ。気にするな。話聞き賃」

 泡盛の古酒は普段あまり飲まないが、今日は体にすっとしみ込んだ。

 リョウさんの下世話な話は、なぜだか胸の奥にズキッと響いた。

 誰かを好きになった時、いつの間にか、とかなんとなく、とかきれいに無難に片づけていたそのきっかけが、本当はそんな「気持ち悪い」ことだったのかもしれない、と思ったのだ。俺も。


 リョウさんは、話をつづけた。

 高校のそのクラスに、ヒロヤってやつがいたんだ。背も高くて顔もまあ良くて、そこそこなんでもできて。まあ出木杉できすぎくんみたいなやつなんだ、ドラえもんのな。出木杉にしては、ちょっとおしゃれなやつだったな。なんかムカつくだろ。

 そのおしゃれな出木杉がつきあってるのがまた、しずかちゃんみたいな子なんだよ。お嬢様っぽくて優等生で。だから、心底どうでもいいんだよな。出木杉がしずかちゃんとつきあってるだけだから。どうぞお好きにって話なんだけどさ。

 でもその出木杉のヒロヤがさ、華にちょっかい出してるんだよ。で、華も、まんざらでもなさそうなんだ。
 なんだよこれ、と思ってさ。俺はもうバカだから、一発かましてやろうって。ヒロヤに聞いたんだ。お前、華とつきあうの? って。

 2人の時じゃないよ。他に4,5人いたな。男ばっかり。たしか放課後でさ。
 そしたら、あっさり否定されて。でも、俺は華が好きだから、なんてとても言えなくてさ。いっつもヘラヘラしてたからな。じゃあなんて言おう、って。


 リョウさんは、ニヤッとした。

「とにかく、めちゃくちゃに言ったんだよ。華はいい体してるからたまんねえ、みたいなことを。いいケツしてる、だったかな。とりあえず、おっぱいに言及すると頭悪そうだからケツにしておこう、と思ったのは覚えてるよ」

 俺はまた、大笑いしてしまった。


「周りはどんな反応だったんですか」

「半分受けて、半分ドン引きだな。ヒロヤはもちろん、ドン引きだよ。お前落ち着けよ、とかイヤーな顔して言ってさ。ほんと、ムカつくやつだよ」

リョウさんは忌々しそうにつづけた。

「それで、華は複筒だからつきあうにはちょっと、とか言い出すんだよ。ちょっかいかけておいて。ひでえよ」

 俺は、高校の教室を思い浮かべた。背の高いイケメンの「出木杉」ヒロヤと、やんちゃそうな高校生のリョウさん。周りで笑ったり引いたりしながら聞いている、同級生たち。

「複筒だからちょっとって言うやつは、今でも本当に理解できない。女に何を求めていたんだろうな。多分、俺が求めたことのない種類の何かだよ」

 リョウさんは、本当にその華さんが好きだったんだろう。たとえきっかけが、よこしまなものだったとしても。


「その後、どうなったんですか」

「それで、終わり。その後は何も起きなかったな、高校の間は。ヒロヤは華にちょっかい出さなくなったし、華もけろっとしたものだった。多分俺だけ悶々としてたけど、結局何もなかったよ」

リョウさんはそう言って古酒をうまそうに飲み干し、ボトルから注ぎ足した。


 つきあうようになったのは、社会人になってから。

 急に華が、俺を誘ってきた。ご飯か飲みに行こう、なんて。
 高校のやつらとの飲み会のとき俺を見て、心配になったんだって。俺その頃、ヤバい会社で働いていたからな。


「その頃のこと、あまり思い出したくないのかなって思ってました」

 仕事の話になるとまずい。俺は、慎重に言葉を選びながら言った。するとリョウさんは、ふっと笑って俺を見た。
「マヤに、言われた?」

「大丈夫だよ。もう仕事のことはほとんど忘れてる。でもなぜか一緒に、華のことも忘れてたんだ」

 だから華のことだけ、たくさん思い出したいんだよ、とリョウさんは言った。

 リョウさんは俺にも、古酒を注ぎ足した。グラスの氷が、カランと音を立てた。


「それで、華と2人で会って飲んだんだ。遅くなって、家まで送った。それで結局、その日のうちに最後まで行った。なんだか不思議な気分だったよ」

 リョウさんの静かな声が、2人だけの空間に響いた。


つづく

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