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ハッピージャムジャム

ミスiDを高校時代から応援し続けているが、今日主催者の小林司氏が紹介していた今年の受賞者に『おに』さんという方を知って、なぜこんなにも本を無心に読み続けられる人が存在するのだろうかと驚いてしまった。自分の性質上、こういう文化コンテンツオタク(映画、本、漫画、アニメ、音楽etc.)の人は尊敬してやまないが、大抵の人はそれを追究するに至らないのではないかと思う。故に凡人↔天才の構図が浮かび上がる。そして私も前者の一人だ。

タイトルはベ◦ッセの某しまじろうの超名曲であるが、私は幼少期とにかく受動的集中力のない人間だったようで、そんな中で唯一見入っていたのがこのしまじろうだったらしい。きっと何かのオタクになるのは自分には向いていないのだと、このエピソードを言い訳に言い逃れしたい。

そんな自分はじゃあ一体、何を見てきたのだろうかというとTwitter、ネット掲示板、あと天井、そんなところなのだ。といいつつも、学者による貧困層ルポルタージュ新書を読んだり、時事問題を扱った現代小説を読んだりと、チョット色のあることをしてもいた。いわゆる日本の闇、アウトサイダーみたいなのは好きだった。しかしそれらに関しても別段、突き詰めているわけではなかった。あくまでチョットした「ファッション」として装着していると面白いから「履修」してみただけであった。またそういうエピソードを深く知りもしないのに小出しにしてくる私は元カレからダサいと言われた。(元カレも私にとってはダサかったので別れてやった)

そして最近の趣味はTinderや斎藤さんアプリといった一般人に出会えるアプリを酒のつまみに、親友と騒ぐことである。相手が生身の人間ならまだ少し集中して関わってみようと思う。インターネットを媒介したコミュニケーションは動物的だ、鳴き声のようだ、と言われるが結局人肌さみしい猿でしかないのかもしれないな。(後日、この欄は追記しようと思う。一応統計をとってはいるのだ)

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オタクが天才の必要条件でないと仮定して、それはヒトの「感覚」にとって気持ちいい取り合わせを取捨できる能力になるのかもしれないが、それを学術的に解明するのは難しい。私はHASAMI groupというアーティストを唯一無二の存在として捉えている。彼らの作品MVはブリコラージュの賜物なのだが、それにはたかだか10000人弱のファンがつくくらいだ。彼らもまた、自身の音楽を資本と結びつけようとは考えていないようだ。



しかし逆に10000という数字、最近は私にとってかなり魅力的にうつる。そろそろコンテンツの深さとファンの数の相関関係を調査したデータがほしい。しかし数や要素に帰結できないのがこの研究対象の性質でもあろう。

私はオタクにはなれないけど、ポールマッカートニーになりたいし、ずっと赤子以外の何かを産み出すことによって自分のアイデンティをこのデカい地球もしくは広いインターネットに残す方法を暇さえあれば模索している。それは10000人くらいに届くものであってほしい。そうやってキモイから今日もまたブログを書いてしまう。


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