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愛していると叫び叫ばれるライブがある

※SUPER BEAVERラクレボ21日本ガイシの感想です。セトリ、詳細なMCは記載していませんが、御了解の上ご覧ください。


私は人並み程度に音楽が好きだ。
人並み、というのは、サブスクや配信サービス等で流れてくる音楽の中で好きだな、と感じた曲をダウンロードしたりセットリストに入れたりして保存する程度である。
楽器の良し悪しや技術的な話はほぼ分からず、唯一昔取った杵柄で声量だけは豊かなため、カラオケではまず音痴と言われることはない。
あくまで曲を好きになるためアーティストの記事や情報を追いかけることはあまりせず、音楽雑誌も無料で読めるwebメディアに限られた。

私の世代は、V系と呼ばれる派手な衣裳と化粧で楽器を掻き鳴らすバンドが流行した世代だ。
若いころは私もライブに行ったことがある。
名前は伏せるが、V系の中でも人気があったバンドのライブで県内一番大きなホールに行ったのが、私の音楽体験の中で最も大きなイベントだった。
というのも、アリーナや広いホールでライブができるバンドの音楽はライブへ行かなくてもテレビやサブスクで流れてくるし、音源が簡単に手に入るため、「まぁ別に現場じゃなくてもな」と考えるようになっていたからだ。
気がつくと、音源を手に入れるのが難しかったり、テレビに出ないバンドのライブばかり行くようになっていた。
テレビ番組のタイアップ曲リリース直後にもかかわらず、小さな箱にまばらな聴衆というライブもあった。
サブスク配信が当たり前になるにつれて音楽体験はより身近になったが、一方で生の演奏からは遠ざかってしまった。

一月二十八日、日本ガイシホールでSUPER BEAVERのライブがあった。
参戦しようと決めたのは、昨年の夏のことだ。
そのころの私は、東京リベンジャーズの劇場版にハマって週に一、二度映画館に通う生活を続けていた。
お気づきだろうが、その主題歌を歌っていたのがSUPER BEAVERである。
「グラデーション」がとにかく気に入り、スマートフォンの電池が90%から15%になるまでずっとリピートしていた。
その次の「儚くない」も、ダウンロードしてからずっとそんな調子で聴いた。
歌ってみて分かったが、複雑な音の組み合わせと、よく聴く心地よいリズムを不意に外す瞬間とがあり、とても歌いにくい。
映画の舞台挨拶にバンドメンバーが登場した際には、こともなげに歌っているボーカルの声と、ほっそりとした見た目の差異にも驚いた。
俳優陣との掛け合いを仕切る、一見竹を割ったような、と言われそうなそぶりと、歌っているときの激しさとは裏表がない。
このひとは、生の演奏ではどんなふうに体を楽器に変えるんだろう。
割と興味本位というか、物見遊山というか、そんな理由で一番取りやすかった日曜日のチケットを取った。
それが一月二十八日だ。
興味の大半を視覚からの刺激に頼っている私らしい動機である。

ライブはのっけから私の心を読んだような選曲で始まった。
半年の間、ライブに行くなら他の曲も知っておくべきだと思って聴いた曲のなかでも、とりわけ何度もリピートした曲が二番目だった。
「みんなのこと見えてるからな! これは優しさで言ってるんじゃなくて、油断すんなよって意味だぞ」
アリーナからスタンドまで見渡したボーカルの澁谷さんは、まずそう会場に念を押した。
初参戦の私は、それを言葉通りに受け取った。
その後も観客の様子を見て、「小さい拍手ありがとうございま~す」「もっと来いよ!」と何度も客を煽ってくる。
曲と曲との間に、聴衆へ語り掛ける言葉がある。
「俺にとって嬉しい楽しいと思うことは貴重で、それをあなたと共有したい」
「今日という一日を、あなたがいなければ成立しなかった日にしたい」
「俺が伝えようとしているのはあなたたちじゃない。あなたです」
ここまで言われれば、私だって鈍くはない。
油断するな――単なる聴衆でいるな、大勢の中のひとりじゃない、お前は当事者だぞ、人と人との対話をしてんだこっちは。(要約)
という意味だ。
セットリストについてはネタバレになるので書かないし、MCもうまく新曲につなげられていたので詳しくは記さない。
ただこのnoteのタイトルで一曲だけはめぼしがついてしまうだろう。
そう、ある一曲は、愛しているを叫び、叫ばれるのである。
ステージからの愛を受け取った私は、腹の底から叫ばざるを得ない。
愛しているの烈しい応酬はサビのたびに繰り返され、一人の声は客席から大きな渦となってステージへとふりそそぐ。
客席にいると、その声は周囲にかき消されるか、あるいはひとうねりとなって他の声のひとつひとつと聞き分けることはできない。
しかし、アーティストはひとつになったそのうねりを「あなた」というひとりとの対話として受け取るよ、それが音楽だよ、傍観してんなよ、とあらかじめつきつけているのである。
それはいくつかある曲の歌詞にもそっくりそのまま映し出されていた。
作詞作曲はギターの柳沢さんのものがほとんどだが、ボーカルの人となりが演奏とリリック、ステージで語られる言葉の間に矛盾を生じさせない。
心と言葉と行動とに少しでもおかしいと思うことがあれば、すぐ口にする。
ボーカルが楽器に変わるさまを見に来たはずの私は、あっさりライブという空間の音楽をつくるひとりに変えられてしまった。

帰り道、特急電車の中でふと、昔遊びに行った箱でのライブを思い出していた。
五組ほどのインディーズ、アマチュアバンドが一組につき五曲、六曲を演奏するよくある対盤形式のライブだった。
半地下のライブハウスは百人入れば押し合いになりそうな広さで、そこに物販のテーブルや飲食物を持ち込むとアットホームと言って差し支えない距離感となる。
幸い、激しいモッシュが起こるようなバンドはなく、客席は穏やかに音楽を楽しむひとで満ちていた。
目当てのバンドはちょうど五組の半ばの登場で、もはや顔見知りとなっていたメンバーと演奏後に会話をするゆとりさえあった。
対盤ライブでは、自分が推しているバンドの演奏が終わると帰ってしまうひとが多い。
帰りの新幹線の時間があった私も、メンバーへの挨拶のあとライブハウスを出ようとしていた。
そのとき、ふっと照明が落ちた。
最後の演奏者は、地元のアマチュアバンドらしい。
破れたジーンズを穿いた還暦に近い男性が、ギターを片手にステージの中央に立っていた。
同じ年の頃のドラムスとベースを引き連れている。
フロアに広がる重低音が、ズシンと鳩尾に響く。
思わず足を留めて、じっとその場へとどまった。
歌詞などはない。
ただ、ロックンロールと繰り返すだけ。
何を伝えたいのかもわからないし、説明を加えるためのMCも一切なかった。
ただ音を鳴らしただけで、観客の反応に目をくべたりせず、ライブでは当たり前のコール&レスポンスは皆無だ。
誰も何も言わない。
しかし、誰もが体をゆらして音楽に身をゆだねていた。
最後には拍手が起こったが、メンバー紹介すらなかったからいまだにバンド名は知らない。
愛しているなんて言わないし、観客の反応など気にしない。
鳴らしたい音を鳴らしにきただけ。
そんなライブの有様に、ちょっと音楽が好きなだけだった小娘は感動した。
演奏者が入れ替わるタイミングで音楽の蘊蓄を語っていた訳知り顔の客が、何も言えなくなっているのも少し小気味よかった(私の推していたバンドを悪く言っていたからだ)。
音楽好きも小娘も突き放すその距離感、ただの通りすがりのひとと接点を持とうとしないそのライブが、私の中では長らく「これがロック」というひとつのイメージになっていた。

バンドにはバンドの特色があるし、ライブは生き物だから一度として同じ現場はない。
演奏者も聴衆も、スタンスは様々だ。
観客に迎合せず喚き散らすバンドもあれば、腕組みをして批評家気取りの客もいる。
振り付けを求められるフレンドリーなライブもあれば、分かるひとだけ分かればいいと何もこちらに呼びかけないライブもあった。
ミーハーというと死語かもしれないが、そんなライトな音楽好きだった私にとって、空間を作るのは演奏者と観客ひとりひとりだなんて、まぁまぁ聞き慣れた、わりとありふれた文句だった。
私は私を内包するライブも、疎外するライブも好きだ。
聴衆として埋もれ、音楽の中でぼーっとしているのも好きだ。
けれど、愛しているを叫ぶライブは、間違いなく人生で初めてだった。
それも、演奏者に対してファン心からのLOVEではなく、人から人への愛である。

結局、私は家につくまで一切音楽を聴かなかった。
大音量に晒された耳を労わる意味もあったが、どういうわけかSUPER BEAVERの曲さえ聴こうと思わなかったのだ。
不思議なことに、周囲の音はよく聞こえた。
というよりも、周りの音を私が聴こうとしていたのかもしれない。
普段ならさざなみのようにしか聞き取れない近くの席のやりとりは、ちゃんと意味のある会話だった。
旅行の帰りらしい家族連れが、今度の電車は来たときよりも速いねとこどもが言うのを笑っていた。
世界の当事者になるというのは、意味を受け取って、それに応えることなのかな。
笑顔になった子供を見ながら、ふとそう思った。
自分のすぐそばにあるのに、関係ないと判断されたものは急激に理解の解像度が落ちる。
本当は、そこにいるだけで空間の当事者であるはずなのに。
自分にとって意味のない声はノイズで、知らないものはモブで、理解できないものはモアレになる。
なぜここにいる? なんのためにここにいる? ここでなにをする?
主体性は、当事者性は、意志は、自分にしか宿らない。
ロックンロールだけを歌っていたアマチュアバンドも、それを聴いた私も、あの日の箱に必要だったのかもしれない。
本当は、対話を求めていたのかもしれない。
そうでなかったとしても、私は好きだと叫んでよかったのかもしれない。
ロックなおじさんはそれでも嫌いだと答えたのかもしれない。
勝手に突き放されたと思っていたのかもしれないし、本当は関わるなと門前払いされていたのかもしれない。
けれどどれも、そこに私が存在しなければ生まれなかった可能性だ。
あのとき、「私」はどうしたかったんだ。
ロックンロールを歌う目の前の男に対して、私は「あなたのロックが好きだ」と言いたかった。
けれど、言えなかったのは勝手に突き放されたと思っていたからだ。
疎外するライブだと思い込んだからだ。
そこに主体性はなかった。
世界の当事者になって応えることができていなかった。
自ら、単なる聴衆のひとりになってしまった。
私はどこにいても、「私」として何らかの意志表明と対話する意志と言葉を持っていなければならなかった。
今日、愛していると叫んだような意志が、あのときの私には必要だった。
急に鮮明になった耳の奥で、そんなことを考えていた。

とりあえず、初めてのライブで受け取った「愛している」はこんなところでいいだろうか。
一度で全部は分かったらつまらないから、気づけなかったこと、伝えられなかったこと、理解できないことはそのまま抱えておくことにする。
また「仲間」として、一緒に音楽をやるその日までは。


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