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東京リベンジャーズ2血のハロウィン編運命/決戦は孤独と愛と許しの物語だった

7/14時点で各二回鑑賞済、明日と17日に決戦を観に行く予定がある。
「運命」「決戦」のネタバレを含むため、見たくない人はここで一度画面を閉じてほしい。

小学四年生でとあるアニメからオタクになって人生の大半をオタクとして過ごしている私。
漫画・アニメの実写化で納得できた作品はサスペンス物に偏っている。
金田一少年をミステリと言えるかはともかくとして、おみやさんとかブラッディマンデーとかそのあたりだ。
映画ともなると、邦画の心もとない懐事情を察してしまう出来栄えにどうしても満足できず、楽しめたのは時代物くらいだろうか。
るろうに剣心はそこそこ楽しんだ記憶がある。

ところがだ。
原作、アニメの時点で沼に落ちなかったにもかかわらず、実写映画によって見事私を沼落ちさせた作品がある。
それが東京リベンジャーズだ。
しかも2「運命」から観た。

ストーリーは割愛するが、血のハロウィンは「かつてチームを立ち上げたメンバーのうちの二人が、誤って総長の兄を殺してしまった」ことに端を発する人間ドラマだ。

わけても、村上虹郎演じる羽宮一虎と、永山絢斗演じる場地圭介の熱演は凄まじい。

マイキーの兄を殺してしまった一虎は、自分を正当化するために、マイキーを「殺さないと」と思い込み、芭流覇羅のナンバー3として抗争を始める。
彼は自分の正当性を求めるあまり誰のことも信じることができず、「人は誰しもが裏切る」と思っている人物だ。
原作では一虎の人格は、家庭環境によるものと表現された。
父からのDVに耐える母は、息子である一虎にこう迫るのだ。
「どっちの味方? どっちもはダメよ」――
一虎は味方を選べない。
だから原作でも映画でも、彼はを選んでいる。
共通の敵を討つ者のみが味方なのだ。

信じることができない一虎は、彼を心から大事に思ってくれている場地に対してすら常に試すような態度をとる。
抗争の最中、疑心暗鬼が渦巻く彼の胸中をかき乱すように、稀咲は「場地が裏切った」と一虎に告げる。
その場に横たわった一虎はその直後、場地が「マイキーはお前ら(武道と千冬の相棒コンビ)が守ってやれ」と口にするのを聞いてしまう。
原作での場地は、一虎に刺された後、稀咲率いる参番隊をのして稀咲の目前で力尽きるが、映画では参番隊も稀咲も倒したあと、一虎の敵であるマイキーを潰せる位置にいながら手を出さなかった。

何故そこに「敵」がいるのに潰さない?
お前はどっちの「味方」なんだ?

一虎はそう思ったはずだ。そういう演技をしていた。
そう、このシーンでの身動きができないマイキーは、場地の踏み絵だったのだ。
味方を選べず敵を選んで孤独になった一虎。
大事な仲間であるマイキーと一虎の両方を選んで自害した場地。
原作にはない表現で、場地と一虎の関係性をここまで描いてくれた監督に、私は感謝の言葉しか持たない。

一虎にとって、吉沢亮演じるマイキーが自分を殺そうとするのは敵だから当たり前だ。
むしろ拳をふるわれることにより、「ほらやっぱりマイキーは敵だった。俺が正しかった」と思ったからこそ場地が自害してお互いを殺す理由を引き受けたあとも、マイキーに自分を殺させようとした。
もしやめてしまったら、マイキーは敵じゃなかった、自分が間違っていたと認めることになるからだ。
マイキーに殴られているときの一虎は、原作では場地と逝けることへの安堵の表情だったが、映画では自分が殺されることによって正当性が証明されることの安心感というように見えた。
味方になってくれた場地のことは信じられず、敵だと思った人間の暴力によって自らの正しさを証明しようとする――悲しい場面だった。

場地に関してはあまりにも永山絢斗が場地さんすぎて、観ているこちらが思わず松野千冬化してしまうほどずっとカッケーしか言えなかったのだが、その芝居が悲壮であり壮絶だ。

まず「運命」のタイトルが入るのが、ジャングルジムに座る場地の場面である。
これから決戦を観る方にはどうか、「運命の最初でジャングルジムに座っていたのは場地」ということを記憶して御覧いただきたい。
そして、「決戦」で最後にジャングルジムに座っていたのが誰かを確かめていただきたい。
おそらく英監督は、ジャングルジムに「戻りたい過去の憧憬」と「すれ違う思い」をこめていると思うからだ。
少なくとも私はそのように受け取り、「二人が一緒にここに座ることが叶わなかった」という切なさに打ちひしがれた。
そしてジャングルジムの形と廃車場の積み上がった車の形が「似ている」と思ったのは私だけだろうか。
この類似が狙ってのことと思うと、胸が締め付けられる。

そういえば、運命で場地が千冬に跨って顔を殴りつけるシーンと、マイキーが一虎に跨って拳をふるう場面も重なる。
前者は場地の抑圧と千冬の信頼を感じたが、後者はマイキーの衝動に身を委ねる自棄と一虎の自分勝手な安寧を感じた。
探せば他にも重なっている場面があるのかもしれない。

場地を演じる永山のすごさは、その抑え込んだ感情を見せずに、そうと悟らせるしぐさだ。
ドラケンが場地を返してもらうと言ったときの、ばつの悪そうな、うざったそうな顔や、武道とのタイマンの直前に歩きながら手を拳を握り開く迷うようなしぐさ。
タケミチから「死なないでください」と言われたあとも東卍を潰すと言い切る。
しかしよく見ると、一瞬目を泳がせたように見えたのは、タケミチの隣にいる千冬を咄嗟に見てしまった目の動きだ。
そこに愛を見つけてしまってもいいだろうかという気持ちになる。

特に踏み絵と称して腹心である千冬を殴る「運命」での場面では、表情からは情など一切読み取れなかった。
その険しさが、彼の最期にはかつての仲間に向ける顔へと変じる。
千冬の腕の中の彼の穏やかさには、涙が溢れた。
ペヤング、食いてえな。の名台詞は、原作では悲しむ千冬を宥める言葉に見えたが、映画では心から安心しきった彼が、最後に千冬と半分こしたかった気持ちがうかがえる。
そしてそのあとに、「ありがとな」だ。
半分こにありがとうはない。
お互いが同じだけ味わえるのだから、対等だ。
場地は、千冬からの惜しみない信頼を抱えて逝くから「ありがとな」なのだ。
信じてくれてありがとう。
全部話せなくてごめんな。
それはのちに、墓の前で泣く千冬の「ありがとうなんてずりぃよ」のセリフにも表れている。
場地からしてもらったことばかりが胸を占めているのに、もうありがとうも言えないなんて……
永山さんが魅せる演技の抑圧された感情が、年嵩とは思えないほど彼を場地圭介にしていた。

一度「決戦」を観てから、私は二度目を観るにあたって考えていたことがひとつあった。
何故場地が自前のナイフを持っていたかだ。
一虎が使ったナイフはすでに血で濡れていたが、廃車の山から足を滑らせつつ降りてきた(このシーンが本当につらいから見てほしい)場地はジャケットのポケットから輝く銀のナイフを取り出している。
血がついた形跡は一切ない上に、きちんと刃がおさまっていたことからも自前であることは明白だ。
しかし、場地は喧嘩の際にナイフを使っていないのだ。
もっと言うと、抗争の最中、場地は東卍創設メンバーとは喧嘩していない。
自分の目的を知ってその危険性ゆえに止めようとしてくる武道、千冬に対する最低限の暴力のほかは、ほぼ稀咲率いる参番隊に対する攻撃である。
(強いていえば他の隊員から奪って殴った金髪の東卍メンバーはいたが)
もし喧嘩でナイフを使うつもりなら、稀咲を刺す機会は十分にあった。

ここからは、二回目を観た私が、永山が演じる場地から感じ取ったことだ。
場地にとって最悪の想定はマイキーか一虎が死ぬことで、一虎と「最後までずっと一緒」と約束していたことを考えると、自前のナイフを持ってた理由は、「一虎との約束を果たすため」ではないだろうか?
一虎がマイキーを殺していたら適当に(思い入れのない)誰かを刺して一緒に少年院へ。
マイキーが一虎を殺してしまっていたら自害。
それも一虎がマイキーに勝てる見込みのほうが薄かったはずだから、前日に武道のタイマンを買った時点である程度自害は覚悟していたのではないか?
武道とのタイマンの最中、千冬は場地の決心が変わらないことを悟って「もういい! これ以上話しても」と仲裁に入っている。
観た人によって意見は異なり、「これ以上言っても無駄だ」と場地をあきらめるというふうに解釈した人もいるだろう。
私は、「これ以上言っても場地さんの決心は変わらない」という、一番近くで場地を見てきた千冬による確信であったと思っている。
そしてその変わらぬ決心こそが「一虎と運命を共にする」ことであり、ひいては「死ぬ」ことであったからこそ、武道の「なんとしても明日を乗り切ってください。死なないでください。マイキー君が悲しむから」という言葉に場地は答えることができなかったのだ。
このとき前出のとおり一瞬千冬を見るのだが、死の匂いを色濃く感じて咄嗟に考えたのが千冬のことだと思うと、千冬は彼が思う以上に思われていた可能性がすこぶる高い。

そして一貫して絆を演じる高杉千冬に対して、徹底して孤独を演じている村上一虎さん。
一虎の孤独を表現した映画オリジナルの場面が、「運命」の冒頭にもある。
パーちん率いる旧参番隊が芭流覇羅に襲われたシーンだ。
一虎は参番隊の隊員の胸倉をつかんで、こう言い放っている。
「誰の前でそのトップク着てんの?」
この言葉のあとに、「俺は着られないのに」という幻聴が聞こえないだろうか。
マイキーに兄を殺したことを許されなければ着ることができない東卍の特攻服。
一虎は確かに、仲間に戻りたかったのだ。

ドラケンは抗争前、一虎に対して「仲間だと思っている」と言いはするものの、戻って来い、帰って来いとは決して口にしない。
抗争の際に条件として出したのも、東卍側は「場地を返してもらう」のみだ。
一虎をもらうとは誰も言わない。
見え透いた、上辺だけの言葉を一虎は決して寄せ付けない。
「そういうところが気に食わねえんだよ」と拳を寸止めしたのは、心にもないことを善人ぶって言うんじゃねぇ! というドラケンへの苛立ちだ。

その証拠に、マイキーは一虎を許すことができず、武道に創設メンバーは五人だと話している。
兄の殺害現場にいた場地は許され、一虎は許されていない。
間違いを認めて謝ることができていれば、と外から観ている客席の私たちはあまりにも悲しい行き違いにそう思ってしまうが、未熟な少年が抱えるには大きすぎる罪と自己正当化のはざまで悪意ある第三者につけこまれた一虎にまともな判断ができたとはいいがたい。
「誰の前でそのトップク着てんの?」
その言葉を、一虎は場地に対しても常に思い続けていたのではないだろうか。
一緒にバイクを盗みに入って、マイキーの兄を殺して、救急車を呼んで逃げようとしたくせに。
でも「許される」には「間違っていた」と認めなくてはならなかった。
「敵を殺せば英雄だ。英雄になれば、誰も俺を間違っているなんて言わない」
だから、自分の存在を「間違い」にする人間は敵として殺すのだ。
場地も例外ではない。
正しいか間違いか、白か黒かしかない一虎に、味方と敵の間に「仲間」がいる場地を信じることはできない。
そうやって自分の正当性を他の創設メンバーに認めさせたとしても、一虎が望む仲間への回帰は叶わないのだ。
自分を「間違っている」などという人がいたらそれは敵にほかならず、全員殺さなければならないのだから。

なんて孤独を見せつけてくれるんだ劇場版東京リベンジャーズ2血のハロウィン編運命/決戦……!!


抗争の結末については、ファンの間でも感想、意見がしきりに交わされている。
劇場版と原作・アニメとの大きな違いとなったのは、一虎からの謝罪の有無だ。
原作では、警察が来るからと撤収をはかる東卍に対して一虎が頭をさげ、「俺は場地と残る」「許してくれとは言わない」という言葉で謝罪を述べたのちに、場地を殺した犯人として逮捕される。
劇場版では、一虎からの謝罪はなかった。
私はそれでいいと思っている。
正しいか間違いか、好きか嫌いか、許すか許さないか。
その二つの間にある長い長い距離のどこかに、信念や受け入れたい気持ちや、場地の愛がある。
「運命」の主題歌だった「グラデーション」は、二極にある感情や選択の間にある連なった「本当」を歌っている。
楽しかった記憶や想いあった感情はどれもこれも本物で、許せない気持ちと同居するから苦しくもある。
原作の一虎は、間違いを認めて謝罪したのちに、マイキーからの「許す」「仲間だ」という伝言を拘置所で受け取る。
劇場版は、マイキーに「許される」のが先だ。
マイキーは、謝ることができない、自分の間違いを認められない一虎すら「許す」と結論したのだ。
一虎は謝罪することのないまま、拘置所でドラケンからマイキーの「許す」という伝言を聞かされる。
間違いを認めたから許されたのではなく、間違いを認められない一虎を、マイキーが一方的に許した。
仲間だと差し伸べられた手を取るかどうかは、一虎に委ねられた。
間違っていない、だから許される必要はない。
自己正当化に走った抗争前の一虎なら、そうはねつけたはずだ。
けれど、一虎はマイキーの許しを受け入れた。
許されることで、「間違いを認める」と示したのだと思う。
場地が敵でも味方でもなく、仲間のために命を張ったのだと、マイキーも一虎も理解したのだ。
その深い愛によって、かつての約束や友情や信念は息を吹き返した。
この映画は「孤独と愛と許しの物語」だと強く感じる改変だった。

かくして私は無事、沼に落ちた。
ちなみに一緒に映画を観に行った、私のnoteでおなじみの坂井大輔強火担兼マイキーガチ課金勢の友人は、「お亮が美しくてつらい」と言いながら三次元の沼へと落ちていった。
毎日お亮の動画を見て楽しそうに過ごしている。

主にファッションのことを話しているnoteで記事にすることでもないかもしれないが、是非興味がある方には観にいってほしい。
最後にファッション系noteらしい報告をひとつ。

坂井大輔強火担兼マイキーガチ課金勢のマブとついにペアリング買いました!
サンローランです!

(サンロー蘭)
おそろいというだけなんですけどね。
YSLのやつ。
かわいいです。
末永くマブであれ。


※大体同じ内容をツイートしているTwitterアカウントが存在しますが、私です。パクりじゃありません。信じて。

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