映画「エゴイスト」感想

高山真の半自伝的小説が原作の映画「エゴイスト」を観た。

ネタバレを含みます。










あらすじはこうだ。
女性雑誌の編集者である浩輔はゲイ仲間から紹介されたパーソナルトレーナーの龍太と知り合う。
体の弱い母親を支えながら生活している龍太のピュアな心根に惹かれた浩輔に、龍太もまた惹かれてゆく。
まもなくつきあい始めるものの、ある日龍太は「もう会いたくない」と浩輔に別れを切り出す。
何故、と問いかける浩輔に、龍太は「売りをやっている」(作中の描写ではゲイ専門のデリヘル)「前はちゃんとやれていた。浩輔さんとつきあうようになってからはつらくなった」(要約)と告げて立ち去ってしまう。
どうにか龍太がいる店を特定した浩輔は、ホテルの部屋へ龍太を呼び出して説得をする。
月に二十万を援助する、足りない分を龍太が稼いで、二人でやっていこう。と。

物語は浩輔のモノローグだ。
田舎から出て来て、かつて自分を馬鹿にした人間から声をかけられないようブランド物の服を鎧として身に着けている。
彼は見た目や様式美をとても気にしていた。
例えば、服は必ずハイブランドで、コーヒーはドリップ式。
龍太に渡す手土産は高価な品で、龍太の母親へ持ってゆく梨さえ安物を選べない。
にもかかわらず、寿司をトレーのまま食べる、もらったおかずを皿に移さずタッパーから直に食べるなど、中身がまるで伴っていない。
龍太に対しても、たんこぶができるほど強く頭を打っているのに病院に行こうとは言わないし、売りをやめさせたことでアルバイトを掛け持ちしている彼が食事中に寝落ちをしても体調を気遣うことはない。
それどころか、荒れた指にだけ着目してクリームを塗りつける始末である。
たとえ同性愛という設定のない作品であったとしても、浩輔のやることなすことがいちいちずれている。
まるで、彼のブランド物で取り繕って化粧をほどこした外見と、田舎育ちでからかわれてきた少年の内面とが齟齬を起こしているかのように、観る者を不安にさせる。

そんなものだから、龍太への援助も中途半端なのだ。
二十万では体の弱い母親を支えながら自らも生活することは難しい。
それまではデリヘルで稼げていたのにそれを辞めざるをえなくなったのは、浩輔のためだ。
腰を悪くした龍太の母親のために龍太名義で車を買おうと持ち掛けたときも、龍太が遠慮しようとすると「じゃあ龍太も毎月少しずつお金を出して」と言い募る。
龍太名義ということは、車の維持費は龍太持ちだ。
車検代やガソリン代などをその都度浩輔にたかれる性格でないことは映画を観ている側ならわかるのに、浩輔にはそれが分からない。
だから、龍太は複雑な顔で「ありがとう」という。
浩輔の優しさが自分に向けられるとき、龍太もその「優しさ」の半額を負担しなければならなくなる。
そしてその「半額の負担」は、最悪のツケとなって龍太を襲った。

何かしてやりたい、「自分ができる範囲内」で。
これが浩輔のエゴであり、私のエゴなのだと思う。
浩輔は雑誌の編集者で高給取りではあるかもしれないけれど、タワマンに住んで外車を乗り回して港区女子を呼びつけて連日連夜パーティーをするような成金ではない。
龍太の「パパ」にはなりきれないし、自分の給料のうちいくらかを切り崩して渡すことしかできないのだ。
その上、その支援は少なくとも龍太にとっては恋愛感情の上に成り立っている。
「できる範囲」の援助を「申し訳ない」と思う気持ちが、夜の仕事に見切りをつけさせてアルバイトの掛け持ちという過労へ龍太を追い込んでゆく。
自分のできることでしか相手を助けられないのに、まるで相手を支えているのが自分だけであるかのようにふるまい、本人の疲労を見過ごしてしまう。

あぁ、いるな。こういう人。
浩輔は違ったけれど、「あれをしてやった」「これをしてやった」と、自分の余裕の範囲で他人にしてやった施しを、延々口にする人間。
それって一生あなたに恩義を感じなきゃいけないの?
それってあなたの一生を構成するすべての事象のうちの何百万分の一なの?
もし私がまともに「あなた」に恩義を感じていたら、龍太のように死んでしまっていたのかもしれない。
私は幸いにして、薄情だ。

相手に「申し訳ない」「ごめんなさい」と言わせてしまう優しさを、浩輔はそれでしか好意を示すことができないかのように行使しようとする。
龍太に対しても、龍太の母親に対しても同じように。
だから龍太の母である妙子は浩輔に何も告げずに入院をしてしまう。
病院を突き止めた浩輔が、「自分のせい」「自分が龍太とお母さんの時間を奪ったから、病気に気づかなかった」とようやく自分のエゴに気がつくけれど、龍太も妙子も彼の示そうとした優しさをエゴなどとは思っていない。
愛が何なのか分からない、という浩輔の告白に対して、妙子は「私たちが愛だと思っていたら、それでいいの」と返す。
それがきっかけであったかのように、妙子は浩輔に対して「申し訳ない」という感情を捨て、自分の息子のように扱い、「まだ、帰らないで」と言えるまでになる。
龍太が浩輔を愛していたから、浩輔が龍太と妙子を愛してくれていたから、だから妙子にとって、浩輔は息子なのだ。

作中には、浩輔の両親のエゴも垣間見える。
病に倒れた母が「これ以上あなたを巻き込むわけにはいかない」と父に離婚を申し出たこと。
それを父が拒絶して、二人でやっていこうとすること。
自分の思う愛を少なからず押し付け合いながら、人は生きている。
そういう姿が描かれている。

浩輔は母親を中学生のころに亡くしている。
母の生前、彼は医者になって母親を助けたいと言っていたのだという。
母親を亡くした上に、同級生から「オカマの母親」と言われたことは浩輔の心の傷として今なお残っている。
このときの浩輔の「助けたい」という感情に、母親への負担を強いるものは何もない。
これが、浩輔の持つ愛の最後の記憶だとしたら、あまりにも若く幼く、つらい記憶だ。
それとも、この「助けたい」すらエゴだったのだろうか。

愛も友情も、人間が他人に対して抱く強い感情の半面はきっとエゴだ。
自分の面と他人の面を持つのだから、当然なのかもしれない。
エゴとエゴの押し付け合う距離感を探りながら、ちょうどいい負担を相手に強いて付き合い続けてゆく。
バランスが崩れたとき、二人の関係は坂道を下りゆくのかもしれない。
私のできる範囲と、あなたのできる範囲の違いに気づかずにいるうちに、はじめはゆっくりと、それから急激に。

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