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袖振り合うも多生の縁

名古屋は日中暖かい日が続いています。皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今週は岩田が担当です。

先日、同じ地方の先輩方の勉強会に参加させていただいた時のこと。
「『袖振り合う(擦り合う)も“たしょう”の縁』は、多生か?他生か?」
という疑問が挙がりました。 

「アラ。多少ではない…ってこと…ですね…」トホホな気分になりました 笑

気を取り直して話題に追いついた頃には、先輩方の検索の結果「多生」も「他生」も用いられる揺らぎのあることわざと判明。
でも、どちらでとっても大きな意味の違いはありません。
(ちなみに、「多少」は誤用ですが、この間違いは私だけではなくよくある間違いなんですって)

多生・他生とは仏教用語で、輪廻の思想に関わることばです。

多生:いくたびも生まれかわって、多くの生をうけること。いくたびも生まれかわるあいだ。
他生:他世をいう。前世や後生。今生に対していう。

仏教語大辞典(縮尺版) 中村元著


つまり『袖振り合う(擦り合う)も多生(他生)の縁』を現代語訳(?)すると、
「すれ違いざまに袖が触れ合うような些細なことも、それは生まれかわり死にかわりしてきた過去世からの因縁によるものである」
「どんな些細なこと、気にも留めないような人とのふれあいも、偶然に起きているのではなく、すべては深い宿縁によって起こるのである」
となります。

これを「多少」の意で取ってしまうと「多かれ少なかれご縁があるんですね」という程のラフな感覚。
敢えて「多生」や「他生」と比べれば「今生」内(意識はしていませんでしたが)での縁で捉えているイメージです。平面的な時間感覚とでも申しましょうか…。
(うーん。上手く言えない)

それが「多生・他生」と知らされたら、グッと奥深さを感じるというのか、立体的に浮かび上がってきます。

同時に、「輪廻」だけではなく「縁起」というもう一つの大きな仏教思想が重みを持って利いてきます。

縁起を考えるとき、私はやっぱり今生の視点から考えてしまいます。
今生だけでも頭がパンクしそうな途方もない広がりですが、これを水平方向の広がりとします。
多生(他生)まで思いを馳せて縁起を考えてみると(いや、そんなこと本当は出来ないのですが)、垂直方向の広がりも伴い、膨張し続ける宇宙空間のような、無限の世界観がイメージされるのですが…。
皆さまはいかがでしょうか。

「こんな短いことわざに、なんとも壮大な仏教の世界観が詰め込まれていただなんて…。しかもその仏教の思想が日常に息づいていたとは」

勉強会は先へ進む中、むっつりお味わいを発動させておりました。(←切り替え下手)

そう、昔の人は「輪廻」と「縁起」の世界観の上に立って、今生を生きていたのですよね。
だから、もがき喘ぐ生の意味を多生に尋ねようとしたり、引き受けきれない苦しみを生き抜くために来世に希望を繋げたり、仏になることを本当に心から願ってそれぞれの仏道を歩むことができたのではないか。
対して、輪廻なんておとぎ話のようにしか思えない私は、心から仏道を求めることができないのではないか。

教えを聞き始める前は自分の内面ばかりに気を取られ、教えに包まれて生きていると感じることが出来ませんでした。入り口に立つことさえ躊躇していました。
この思考が極端に進めば、私の頭で理解出来ること以外は「ない」ものとしてしまう。そんな傲りとリスクを孕んだ私がいます。

そして縁起と輪廻の二つのキーワードを切り離して「縁起は分かるけど、輪廻なんてどうしたら信じることができるんだろう」と悶々としていた私です。

それでも、ある時耳にした
「輪廻の思想は仏教の土台になっているけれど、現代人は輪廻なんて信じないでしょう。それでも仏教から学ぶべき事はたくさんある」
という趣旨の言葉に深く共感し、そのスタンスでも仏教に携わっていいんだと内心ホッとして仏教の入り口に立つことが出来ました。

その私がどこでどうなって、輪廻を自分事として奥行きを持って感じられるようになったのか?

勉強会からの帰り道、渋滞に巻き込まれたのをいいことに記憶を手繰り始めました。

一つ思い当たったのは、多くの人が一度は頭を過ぎったことがあるであろう、
「私のいのちはどこから来て、どこへ向かうのか。どっちを向いて、どう生きればいいのか」という根源的ないのちの問いです。
この問いを抱き、生と死の意味を思わずにはいられない時点で、反抗しながらも確かに輪廻を感じて生きていたじゃないかと振り返るのです。

もう一つは、お念仏です。
お念仏にな~んの疑問も持たなかった子供の頃、スラスラと口にすることが出来ました。でも「お念仏って一体なんなんだ?」と考え始めたら口につかえて出てこなくなりました。拒否感ほど強い意志があるでもなく、称えようとしても声にならない。
阿弥陀様の前を通るときにはボソボソ・そそくさ…そんな時期があったのです。
私の意志で称えようとするお念仏の限界だったのでしょう。

お念仏を再び私が…ではなく、届けられたお念仏が口からこぼれるようになったのは、お念仏に込められた阿弥陀様のお心を、私の考えを脇に置いて聞けるようになってからです。

いのちの意味と生き方を探究し、実践するのが仏道と思ってワクワクしていました。ややこしい奴ですね。
けれど、教えによって明らかにされた私の実態は…。いのちの問題は私には到底解決できるものではありませんでした。

問題の大きさと私の度量を見抜いた阿弥陀様。
「お浄土へ生まれ仏となるいのちである」と私のいのちの意味を定め、
「お念仏して生きてきてくれよ」と生きる方向性を示してくださいました。

そこまで聞いても「つまりお念仏というのは…」と小さな頭でごちゃごちゃ考え、ただ「南無阿弥陀仏」とは申せない私。
イチイチ難儀な奴に、阿弥陀様はお念仏を称えさせるようはたらきかけ、やっと今、お念仏が口からこぼれ出てくださるようになりました。

「輪廻」が意識できたからいのちの解決への仏道が始まるのではなく、
私が問題意識を持つ前から阿弥陀様の方で既に解決してくれていました。

輪廻を貫いてはたらきかけられていた大きな力に頭を下げた時、自動的に受容れざるを得なかったんでしょう、輪廻という私のいのちの迷いの経歴を。


さて、『袖振り合う(擦り合う)も多生(他生)の縁』を発端として綴ってきた今回のブログですが、書きながら頭の大部分を占めていた親鸞聖人のおことばを紹介して、結びとさせていただきます。

当ブログのヘッダーにも登場し、誰だったか本文にも紹介してくれている、メンバー全員に深く染みついているおことばです。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」

『顕浄土真実教行証文類』総序

仏に背き煩悩を貪る者は、何度生まれかわっても阿弥陀様の本願に遇うことはできません。しかし今、はからずも阿弥陀様が与えてくださったお念仏を称える身にさせていただきました。これはひとえに私を導くため、遠い過去世から積み重ねられてきた仏縁のおかげであると慶ぶべきです。

親鸞聖人、万感の思いが込められたおことばと聞かせていただいています。


ナンマンダブ

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