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であうべきもの

寒さがまだ残る2月ですが。
ようこそようこそです。

今週は、佐々木です。

我々は生まれてきて、たくさんの、人や物と、であいます。

まず、親とであうでしょう。

空気とも。

水分とも。

栄養とも。

やがて成長すれば、自分にとって良い出会い、悪い出会いを経験しながら、私という人格が形成されていきます。

好きな人と会うだけであればよいところ、そうはいかないと、仏教は真実を説きます。

怨憎会苦、愛別離苦、

憎い人とは、
会いたくない場所で会わないといけないし、
会いたい人とは別れていく。

その事実を、どう受け止めるか。

その苦しく、涙を流しながらしか聞けない、聞きたくもない事実をどのように乗り越えるか。

そこを説くのが、仏教の勇敢さです。

世俗に迎合するわけじゃない、
都合が良くなることを願うだけじゃない、
教えであるのが、なんとも心強い点です。

統ー教会を、反社会的であると、批判する方がいます。

社会的な倫理に反する問題を起こしたからこその言い方です。

これに対しての、面白い意見を最近知りました。


それは、「いや、それって本当に、反社会的なの?」

という意見です。

金と権力を集め、自らの都合の良いように事を進めることを良しと周りを利用するのは、

社会に反したことでもなんでもなく、

社会的なこと、そのものではないか?

という言い方です。

過社会的であると、表現されていました。

ニュースで取り上げられるような問題を起こしたから、反社会的なのか。

いや、自らの都合を最大限、実現するために周りを使っていくのは、我々の社会そのものではないか?

いや、自分の心そのものではないか?という問いでもあるでしょう。


自分とは違うと切り捨てるのは簡単ですが、そこに救いはありません。あるのは自己満足と他者の切り捨てです。

本当に救われるとは、自利利他円満、他者と自らの、苦楽が一つになる、お悟りであるぞと、仏様方は、私に仰っているでしょう。


私こそを見捨てない、他者のために生きていく仏という命にしてみせる、という阿弥陀様の誓いが存在します。

命の意味を知らずに生きている私に、

意味を与える願いが存在します。

その内実を、真宗門徒はお念仏に聞いていきます。

ナンマンダブツという、このお念仏は、私に届いた願いそのものであります。

私を捨てないというはたらきそのものであります。

私は、いろんなものとであってきたが、

他のどんなものも持ち合わせていない、

どのような状況であろうと、決して私を捨てないという存在を頂けます。


私を最も大事にしてきた私が、

私を願う、私よりも大事なものにであう喜びこそ、

浄土真宗の御信心の嬉しさです。

私を包むからこそ、私よりも大切でありますが、

私の大切さが、2番目になるかというと、そうではありません。

自分よりも大切な存在とであえばこそ、


さらに私を大切にしていける道が、用意されていました。

私とは何者か。

知らなかった私が、本当の自分と会っていける。

これこそ、本当の豊かさでしょう。


昨日が節分でした。

鬼は内、福は外。

いや、普通だったら、

鬼は外、福は内。

さてさて。。。


仏様のお慈悲とは、自らの喜びを他者に与え、苦しみは背負ってみせる、というはたらきです。

鬼こそ内に来させてみせるよ、
福こそお前に与えていくよ。

なんと温かいか。

その身内にされる存在こそ私です。

自分に最後まで完璧に寄り添ってくれるものはありません。
その、身寄りのない命を、子として引き受けていくなのりこそ、南無阿弥陀仏です。

前の投稿で、

「鬼は内、福は外、お慈悲の豆は耳で拾え」

という言葉を紹介しました。


仏様の心を表すと、こうなるのでしょう。

人から排除されていくものこそ、捨てられないんだよ、

見捨てないんだ。というはたらきを、お慈悲といいます。


そのはたらきを、今度は私が担っていく。

それが嬉しいんだと喜んだのが、親鸞聖人でしょう。


その耳に飛び込んでくるお念仏こそ、お慈悲の豆だよ、食べるよりも前に、そこに飛び込むからね。

南無阿弥陀仏、

この口動かし、この耳に飛び込んでくるこの声こそ、

阿弥陀様、そのものであります。


「みんな来て ずーっと居ろよ この家に。酒もあるから 豆撒かぬから」

どんなものも居ていいよ、

お前こそ我が家に来いよ、

他の家には見捨てられたかもしれない、

鬼なんか入ってくるな、外に行けと言われたかもしれない。

しかし真実はそうではないよ、

うちに来いよ、お前こそ来い。

私の中にこそその鬼がいると聞いた人は、他者を簡単に見捨てません。

私が鬼になりうる当事者だからです。その温かさを感じさせてもらえる短歌と頂きました。


親鸞聖人の自らを見る目も、ここにあったでしょう。

他の人の問題は二の次。

自分の中にあるこの鬼の性格こそ、問題なんだ。

しかしこの問題を、第一に考えた存在があったんだな。

私こそを目当てとして、お念仏が届いていたんだな。

何があっても、お前ひとり忘れはしない、忘れられない、忘れるならば、仏の位を捨てるよ、とまで誓った存在がありました。


これとであえて良かったな。

死んでいける。
死ぬことにも意味が与えられるから。

死んでいけるからこそ生きていける。

命に意味が与えられるから。

あえてよかったと、
自らの命を喜べる、

これ以上の幸せが、この人生にあるんでしょうか。

称名



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