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春の光と花の枝

お彼岸を迎え、ずいぶん暖かくなってきました。
こんにちは、みなさまいかが御過ごしでしょう。
今週は那須野が担当いたします。

さて、そろそろ春の花が咲き始め、我が家の庭も梅の花から桜や木蓮にバトンタッチです。
何本かある桜の木、初めの一本がほぼ満開になりました。

中国のことわざに、
「春色無高下 花枝自短長」(春色高下なし 花枝自ら短長)
という言葉があるそうです。
春の日差しは等しく地上を照らしますが、照らされた花の枝は短かったり長かったりします。
また花だって早く咲くものもあれば遅いものもあります。
日陰の花と、よく日の当たる場所にある花とも咲き方は異なるでしょう。
水分のある土地と、そうでない土地でも違いますね。
少し先だと、紫陽花などは地質によって色が変わると言います。
それぞれの花の性質から自ずとその違いが現れる訳ですね。

この言葉をインターネットで検索してみると、
禅の言葉として取り上げられているサイトがいくつかありました。
そこでは差別(仏教ではシャベツと読みます)を表現する言葉として紹介されていました。
仏教でいう差別というのは、現代私たちが使っている差別とは少し異なるニュアンスとなります。
男女差別や人種差別、年齢差別や職業差別のような、不当な理由で他より低く取り扱うという意味ではありません。
『広説仏教語大辞典』(中村元著 東京書籍)には、
「区別。相違。すっかり別のものであること」とあり、
『浄土真宗辞典』(本願寺出版社)には、
「平等に対する語。個々のものが独自の相をもって存在しているありかた」とありました。

在り方の違いそのことを差別という訳ですね。
そこからの判断は抜きにした言葉です。
あの子と私、違う人間ですから、当然違いがある訳です。
その違いを差別というのであって、その良し悪しの意味は含みません。
(※ただし実際言葉を使う時にはよく状況などを吟味して使ってください。)

臨済宗のご法義については詳しくないので、触れることはやめておきます。
ただ私は、春の光は阿弥陀様の救いのはたらきだと味あわせていただきました。
阿弥陀様の救いのはたらきというのは、言い換えると阿弥陀様の願いです。
一切の衆生を救いたいという願いです。

先ほども述べましたが、例えば私とあの子は違います。
生まれも違えば、学校も違います。
家族構成も違うし、親の仕事も違います。
結婚しているかも知れないし、していないかも知れません。
好きな映画も好きな食べ物も違うでしょう。
私はお酒が好きですが、あの子は嫌いかも知れません。
些細なことで喧嘩になるかも知れません。
お互い大嫌いになって口を聞かなくなることもあるでしょう。
数年後には何事もなかったかのように笑って喋っているかも知れないし、
今生が終わるまで喧嘩したままかも知れません。
私たち人間なんてそんなもんです。

しかし阿弥陀様の願いの中では、そんなこと関係ないのですね。
一切の衆生ですから。

勝手に言葉を入れ替えてみます。
「花枝自短長 春色無高下」(花枝自ら短長 春色高下なし)
同じ状況ですが、少しニュアンスが異なります。
花の枝は短かったり長かったり、花は早く咲いたり遅かったりしますが、
春の光は分け隔てなく花枝を照らしています。
私たちは色々な縁の中で、このいのちを生きています。
日々の変化もありますし、他人との差別もあります。
自分自身が年を重ねることでの変化もあるでしょう。
しかしいつの時だって、阿弥陀様はこのいのちを願ってくださっています。
「我が名を称えよ、必ず救う」
「はい、南無阿弥陀仏」


病み上がりのぼんやりした頭で、
ぼんやりしたブログになってしまいました。
悪しからず。


称名

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