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「夏の終わりに思う」

こんばんは、陰山です。

もう8月も終わりですね。
このところ豊中市では様々な所で納涼祭が行われ、私も夏の終わりを楽しんでおりました。
お盆を過ぎても思うように涼しくはなりませんが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?


私は今年に入ってから「ボーっと生きていてはいけない!」と、日課を決めて本当に少しずつ勉強しているのですが、8月に入ってからは忙しさにかまけて日課も疎かに…
子供たちも新学期が始まっていますし、(8月から学校が始まるのって変な感覚があります)私も日課を再開しようと思います。

日課の一つに、親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類』の梯和上の昔のご講義を聞きながら、ノートを取るというのがあります。

「分別的想念は人に悲劇をもたらす」
そのご講義の中での一節です。

分別ということについて。
皆さんは自分というものを何をもって確立しますか?
私は、「私」を「あの人と私は違う」「あの人より私が上」「あの人の方が私より好まれている」と、そんな見方しかできません。
何によって自分を確立するか。
私は「私以外の誰か」と比較して、相対的にしか「私」を確立できません。

例えば就職活動の時、面接官から「今まで何をして来られましたか?」と聞かれたとします。
他の方を意識せず「私はこんなことをしてきました!」とは言えません。
「私は(他の方とは違う)こんなことをしてきました!」と言います。

「あなたは何者ですか?」と聞かれた時、他を否定せずに「私」というものを定義できないんでしょうね、私は。


「私(1)」は「私でないもの」でないから「私」は「私(2)」である。
「私(1)」と「私(2)」は同じようで違う。
「私(1)」は他を媒介とせず「私」が成り立っていますが、「私(2)」は他を否定することによって「私」が成り立っています。
「私(1)」と「私(2)」とでは豊かさが全然違う。
「私」は決して「私」一人では生きていけません。
「他」によって支えられ生かされ生きています。
「私」が「私」のみで成立するのはありえないのです。
それでも、「私」は「他」を否定することでしか「私」を確立できない。

「私は私を成立させる一切の根拠全てを否定することによって私となっている。自分を成立させるものを否定しないと自己が立たない。そこに悲劇がある。」
これもご講義の中でのお言葉です。

生まれの違い。色の違い。国の違い。性別の違い。好きなものの違い。色んな違いを私は生み出し、あなたと私は違う。といい、私と違うものを蔑み、私が上だという。
そこに幸せはあるでしょうか。
一生涯変わり続ける違いに、翻弄され続ける生き方にしか思えません。
でも、それが私が生きてきた生き方であります。

悲劇のど真ん中を生きている。それが穢土っていうことなんでしょうね。

私が「あの人とは違う」という、私と他とを区切って分けて分別して、そうやって私の虚妄分別によって分別された世界が穢土。
その分別を超えた無分別の世界がお浄土。

阿弥陀さんは一切のものを分け隔てなくすべてお浄土へ生まれさせようと、今もはたらき続けてくださっています。 
それをそのまま受け取ったら、私はお浄土へ生まれさせて頂くものです。
つまり、如来の子。
でも、それは私だけじゃない。
全てのものに分け隔てなく降り注がれるお慈悲のお心。

私が分け隔てしているあの人も、阿弥陀さんのお慈悲が注がれる如来の子である。
そう思うと、分け隔てしているこの私が間違っていると気づかされ、穢土の中を私が正しいと思って生きていることに気づかされます。

悲劇のど真ん中を生きながら、そんなものだからこそお慈悲は決して変わることなく全てのものに降り注がれている。
そんなことを思う夏の終わりでした。

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